東京から地元住民への説明会のため、芸能事務所の男女2人、高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)がやってくるが、施設の建設に疑念を抱く住民たちの質問には回答をはぐらかすばかり。2人はいったん東京に戻り、再度説明に来ることを約束して、説明会は終了したのだったが……。
グランピング施設の説明のため、東京から芸能事務所の人間がやってくるが(c)2023 NEOPA / Fictive
自然のサイクルのなかに”悪”は存在しない
物語の背景として横たわっているのは、自然保護と開発をめぐる環境問題なのだが、作品で描かれるのはそれだけではない。各々の立場に置かれた人間たちの深い「事情」にまで踏み込み、濱口監督流の鋭い洞察が随所に散りばめられている。それは、あらためて住民への説明に訪れる芸能事務所の人間の描き方にも表われており、高原の町へと向かう車中では、高橋と黛の各々の生き方に対する会話が続き、それにも長い描写が割かれている。
「悪は存在しない」というタイトルは、「自然のサイクルのなかに”悪”は存在しない」という濱口監督の考えに基づいて命名されたものだというが、けっして人間の「正邪」を決めつけることのない、この作品の核心をも射抜いたタイトルにも思えてくる。
また、思わず見過ごしてしまいそうなさりげないシーンにも、濱口監督の緻密な演出が凝らされている。例えば、巧と花が鹿の水飲み場で拾う山鳥の羽根が、後のシーンでは主人公の果断な判断へと結びついており、観終わった後にそのことに気づき驚かされたりもした。
自然の湧水から清冽な水を汲むのも匠の仕事の1つだ(c)2023 NEOPA / Fictive
とにかく観る者にとっては油断のならない映像がさりげなく繰り出され、作品へと深く没入すればするほど、映画を観る愉楽も倍化してくる。それは、これまでの濱口作品の観賞体験とも同様である。