日経新聞の「私の履歴書」に寄稿された中内氏の回顧は、冒頭から心を掴まれるものであった。
「私は中内軍曹として敗戦を迎えた。突撃の一言で、勇敢な人ほど死んでいった。私は卑怯未練で生き残った。その無念の思いが、いまも私を、流通革命に駆り立てている」
これもまた、生死の境を歩み、深い死生観を掴んだ経営者の言葉であろう。
近年の政治家や経営者に、人間としての「軽さ」を感じざるを得ない人物が増えている理由は、一つには、こうした生死の体験を持ち、深い死生観を抱くことが難しくなった時代だからであろう。
しかし、一人の経営者として、ここで、一つの疑問が浮かぶ。
「では、戦争や大病などの、生死の体験が無ければ、我々は、深い死生観を掴めないのか」
そうではない。そうした体験など無くとも、我々は、死生観を掴むことはできる。ただし、そのためには、次の「三つ真実」を直視して生きることである。
「人は、必ず死ぬ」
「人生は、一度しかない」
「人は、いつ死ぬか分からない」
もし、我々が、この三つの真実を直視しながら日々を生きるならば、人間としての重量感など、黙っていても、身につくだろう。そして、我々の中から、不思議な生命力が湧き上がり、想像を超えた可能性が開花していくだろう。
なぜなら、世の中では、しばしば、次の言葉が語られるからである。
「必死になってやれば、凄い力が湧き上がる」
然り、その通り。だが、我々は、決して「必死」になることはない。人生が、あと何十年でもあるかのように、弛緩した時間を生きてしまう。
ならば、この「必死」という文字を、よく見つめてみるべきであろう。
「必死」と書いて、「必ず、死ぬ」と読む。
されば、我々は、誰もが「必死」。
そして、その「死」は、いつ来るか分からない。
そのことに気がついたとき、我々の日々の「時間の密度」は、圧倒的に高まる。
人間としての「重量感」は、その「時間の密度」から、生まれてくる。
田坂広志◎東京大学卒業。工学博士。米国バテル記念研究所研究員、日本総合研究所取締役を経て、現在、21世紀アカデメイア学長。多摩大学大学院名誉教授。世界経済フォーラム(ダボス会議)専門家会議元メンバー。全国8,300名の経営者やリーダーが集う田坂塾塾長。著書は『人類の未来を語る』『教養を磨く』など100冊余。