一方、解体業で一家を支えていた父マズルムは、難民申請が不認定になった上、在留資格の更新も認められず、入管施設への収容を一時的に解かれた「仮放免」のかたちとなってしまう。就労は禁止され、保険証もなく、県外に出られない。しかしトルコに帰ったとしても、以前独立闘争に参加していた彼は拘束される恐れが高い。
一緒に大阪の美大に行こうといった話まで出ていたサーリャと聡太のほのぼのした恋は、一家が直面した危機によって、一気に悲恋の様相を呈してくる。聡太は初めて知るクルド難民の理不尽な運命に怒るが、当然為す術はない。
そんな折にふとしたことから、クルドの文化や慣習を大切にするマズルムと、そこに意味を見出せないサーリャのずれが顕になる。さらに、仕事をしているところを見つかったマズルムは入管施設に強制収容。大黒柱を失った不安と混乱の中、みるみるうちに家族の気持ちはバラバラになっていく。
機能不全に陥った家族に寄り添ってくれるのは、母子家庭の聡太とその母だ。聡太の家で、聡太、母、サーリャ、ロビンがささやかな食卓を囲むシーンは、幸せな擬似家族に見える。しかしコンビニをクビになったサーリャに残された選択は、最低限のプライドを保ちながら聡太から遠ざかろうとすることしかない。
17歳にはあまりにも過酷な状況を懸命に泳ぎながら、端正な顔立ちのサーリャの表情には、深い悲しみと無力感、それを好きな人に見せまいとする意地が繊細に交錯する。
家族をもう一度つなぐ役割は
父に自転車を隠されたため、彼女が徒歩で新荒川大橋を渡る場面は、在日クルド人の困難を象徴的に示している。この橋の中央の県境の表示にかつて聡太と二人でつけた赤い手形は消され、「落書き禁止」の札が貼られている。分断に抗おうとするささやかな行為は、国家の法の前に容易く握り潰されることを象徴するかのように。家賃の支払いが滞って大家から立ち退きを迫られ、大学に行くため貯めたバイト代を生活費に回し、知り合いのクルド人たちからお金を借りても足りず、サーリャは友人に誘われるままパパ活に足を踏み入れる。聡太の精一杯の援助の申し出も、彼女の気持ちには届かない。
こうした中で、ギクシャクする彼らをもう一度つなぐ役割を果たすのが最年少のロビンだ。「この石もクルドの石もなんも変わらん」と言った父の言葉と、聡太に手解きされた自由なお絵描きが繋がって、孤独だったロビンの中で花開く。ドラマの中で一番弱く幼い者が、無言のうちに自分の表現を通して希望を指し示す奇跡的なシーンは、『トウキョウソナタ』(黒沢清監督、2008)のラストを思わせる。
子どもたちの将来のために大きな決意をした父マズルムの語る、故郷のオリーブの木の話。かつては父が水をやり、やがてサーリャが、そして今はロビンが水をやるようになった庭のオリーブの鉢。遠く離れた場所の二つのオリーブは、それぞれの国の事情でおそらく二度と会えないだろう父子をつなぐ、唯一のシンボルだ。
子どもだけが残った家は、家族ではなく力も持たない者たちの善意で辛くも支えられていくだろう。事態は何一つ好転したわけではないが、最後、育った日本で運命を切り開いていく決意をしたサーリャの眼差しが、はっとするほど強い。
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