障害者とそうではない人の区別というものはどこにあるんだろう
──『普通をずらして生きる ニューロダイバーシティ入門』でも、伊藤穰一さんが「私たち抜きに、私たちのことを決めるな」という言葉を紹介しています。アメリカの差別撤廃・権利拡大運動には当事者参加が前提である歴史があると。
それからニューロダイバーシティという考え方が「障害者=劣っている」という極めて単純な考え方を崩した意義を持つ、という内容を解説した箇所など、「我が意を得たり」とマーカーで線を引きながら読みましたよ。
この知事室には「ともいきアート」という、障害者によるアート作品を飾っています。作品をリースしていて、3カ月ごとに作品が変わるのですが、どの作品も天才的なものばかり。見ているとね、障害っていうものの意味がわからなくなってきますよ。つまり、障害者とそうではない人の区別というものはどこにあるんだろうという気持ちになってくる。自然とリスペクトが生まれてきます。
思うのは、こうしたアート作品は自身の才能を思う存分発揮しているから、人を感動させるんだということ。自分の好きなこと、できることを自由に伸ばす環境が必要なんですよね。
伊藤さんがこの本で言っているように、日本の教育は均質な人を作ることに専念してきたわけです。それはこの国の高度成長の要請だった面もあるでしょう。
しかし、均質的な普通を目指すことが標準、という考え方は、非常に危ういと私は思います。なぜなら、そこに普通と、普通ではない、の分断があるからです。その延長線上に、悲惨な津久井やまゆり園事件があったのかもしれない。
「普通の人」ばかりを作っていることにどんな意義があるのでしょうか。そして「普通って何?」ってことですよ。
──まさに「普通と、普通ではない」の垣根を超えて、インクルーシブ教育を積極的に実践している神奈川県ですが、『普通をずらして生きる』で紹介されている松本理寿輝さんのインクルーシブ教育の実践についてはどんな感想をお持ちになりましたか?
松本さんが保育園・こども園でされている、その子の得意なところ、好きなことを最大限伸ばしてあげよう、という考え方にはとても共感しますし、まさに「標準な人」を育てるこれまでの教育とは違う方向ですよね。
そして「ニューロダイバーシティの学校」を計画されているとのことですが、特に小さいころからさまざまな個性をもつ人と触れ合いながら大きくなっていくのは、インクルーシブ社会の土台にもなるでしょう。まさに「ともにいきる」社会の基礎になる。いわば、障害あるなし関係なく、ごちゃまぜが当たり前になっていくことが、教育から広がっていけばいいと思います。
もちろん本県では、特別支援教育を必要とする児童・生徒のための環境づくりをしています。ですが、本音を言うと、私は特別支援学校をやめていきたいんです。もちろん「うちの子は特別支援に入れたい」という親御さんの声もたくさんあります。その事情もさまざまでしょう。
しかし、それはあくまで親御さんの「目線」であって、当事者である子どもの「目線」ではないんです。その子はみんなと遊びたいかもしれないし、もしかすると、混ざったほうが自分の個性を発揮できるかもしれない。親御さんだけの目線で「分ける」ことをしてもいいのかどうか、と私は考えているんです。