ラグジュアリーとマウンティング 程よい距離の取り方とは

彼は明確に言葉で表現したわけではないので「暗に」と書いたのですが、ラグジュアリーに関わる人は研究者も含めてマウンティングに走ることがまま散見される。その現実を知っておくのが賢明であると彼は教えてくれました。

「私はこれだけのお金持ちの実態を知ったうえで、このような現実の動向を語っているのだ」と話す人には気をつけろ、ということです。実際、ウンザリするほどにこの手の話を聞かされることがあります。研究者も例外ではない。いや、研究者の方が富裕層とのコネクションを話す動機が強いかもしれません。「研究畑といえども、私も世情には詳しい」と言わざるをえないことがあるのでしょう。
Photo by Tomohiro Ohsumi/Getty Images

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そもそも19世紀以降のラグジュアリー史でしばし語られるように、マウンティングをしたい人のツールとしてラグジュアリーが存在してきた事実があり、現代においてもその性格は十分に生き残っています。欧州の高級ブランドがアジア市場への依存度が高いのも、アジアの人たちのマウンティングの道具に使われるシーンが多いからです。

よってラグジュアリーという概念そのものが鼻につくと批判し、ラグジュアリーをできるだけ遠巻きに眺める人が少なくない。ラグジュアリー研究が「キワモノ」にみられる遠因でしょう。だからこそ、逆に良い意味でいろいろとほじくっていくべき部分が多い。フロンティア精神を発揮しやすい分野だとブルンは示唆してくれたのです。

ただ、「ミイラ取りがミイラになる」という事態に陥らないためにも、マウンティングをとる人を前にしたら、そっと退席するくらいの覚悟が要されるのです。そう、衝突などという無駄なエネルギーを使っている暇はありません。それ以上に新しい領域に踏み出すことに力を使いたいです。

ぼくが新ラグジュアリーという文化創造に活動の焦点を絞ったのも、ブルンの元同僚のロベルト・ベルガンティが唱える「意味のイノベーション」のぼく自身の実践編として、ラグジュアリーの意味を戦略的に変えていく試みに乗り出しただけでなく、マウンティングをとる人を避ける防衛本能が働いたのかもしれません。

この防衛本能の部分はラグジュアリーに関わり始めてからさほど意識していませんでしたが、ブルンの逝去の知らせに接してあらためて気づいたのです。彼の控えめな性格が、ぼくのラグジュアリー探訪を心地よいものにしてくれたと表現しても良いです。

前澤さん、ラグジュアリーそのものをはじめから毛嫌いする人が多いですが、そういう人たちもラグジュアリーの中身を知って面白がってくれる人にたくさん出逢ってきました。このエピソードから想起されることがあればご紹介ください。
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前半=安西洋之 後半=前澤知美

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