平均してパーペチュアは1日に数十両の新たに大破したロシア軍の車両と、同様に破壊された少数のウクライナ軍の車両を確認している。この数は、独立系OSINTサイト「オリックス」が開戦からの700日間で数えた両軍の車両損失数と一致している。オリックスの集計ではロシア軍は1万4000両、ウクライナ軍は5000両を失った。
3月2日はパーペチュアにとって多忙を極めた日の1つになったが、その前日あたりには何が起きたのだろうか。忙しさでいえば、2月3日にわずかに及ばなかった。パーペチュアはこの日、1日としては最多となる103両の撃破または放棄された車両を確認した。70両がロシア軍、33両がウクライナ軍のものだった。
3月2日にパーペチュアが確認した車両は97両で、うち84両がロシア軍のものだった。ロシア軍が1日に失う平均の4倍だ。一方、ウクライナ軍の損失は1日平均の2倍だった。
この惨状は納得のいくものだろう。2月の車両損失が多かったのは、ウクライナ軍が拠点を置いていた東部ドネツクの北西に位置するアウジーウカをめぐり激戦が繰り広げられたためだ。結局、4カ月にわたるアウジーウカの戦いは多大な犠牲を払ったロシア軍の勝利に終わった。
ロシア軍の第2、第41諸兵科連合軍は弾薬不足に陥ったウクライナ軍の守備隊から廃墟と化したアウジーウカを奪おうとする中で兵士1万6000人を失った。負傷者は数万人、車両の損失は約700両にのぼる。ウクライナ軍側の犠牲になった兵士の数はおそらく4桁だ。
ウクライナ軍の第110独立機械化旅団は2月中旬にアウジーウカから撤退した。ロシア軍はアウジーウカに留まらず、アウジーウカの数km西にある集落群を過ぎてさらに西へと後退したウクライナ軍を追って攻撃を続けた。ロシア軍はその過程で多くの死傷者を出しながらもステポベ、ラストチキネ、セベルネをすぐに制圧した。
それらの集落のさらに西に位置するベルディチやオルリウカ、トネニケといった村々で、ウクライナ軍の第47独立機械化旅団、第3独立強襲旅団、第57自動車化旅団は戦いながらの撤退から積極的な防衛に切り替え、戦車や大砲、迫撃砲、ドローン(無人機)で反撃に転じた。
米国からの支援はなかったものの、欧州の同盟国が提供する弾薬の増加で強化されたウクライナ軍の旅団はロシア軍の前進を食い止めた。米国はロシア寄りの共和党議員らが昨年10月に支援法案の採決を阻止した直後からウクライナに追加支援を送れずにいる。
米シンクタンクの戦争研究所(ISW)は2月18日、こうした展開を予想していた。「アウジーウカ制圧で人員と装備に多大な損害を被ったロシア軍は、備えができている守備陣地に陣取る態勢が立て直されたウクライナ軍の部隊と対峙したとき、おそらく勢いのピークを迎えるだろう」とISWは書いている。
その証拠はアウジーウカ西方の野原や道路、樹林帯に散見される。そこには何百両もの大破したロシア軍の車両と、それよりずっと少ないウクライナ軍の大破した車両がある。パーペチュアが3月2日に確認したロシア軍の84両の損失は、アウジーウカ西方でのロシア軍の最後の大攻勢を少なくとも今のところは意味しているのかもしれない。
(forbes.com 原文)