頻発する不祥事やスキャンダルを見聞するにつれ、噛み締めたい言葉である。
A大学では、大麻が発見され警察に押収された。トップは「そういうことは一切ない」と言い切った。B劇団では団員の死亡事件が発生した。パワハラの存否が問題視されたが、劇団側は否定した。C社では、増資インサイダーの発生が取りざたされた。会社は「見解の相違」を理由に徹底的に争った。
いずれも、初動が世間の強い反発を招いた。客観的事実が判然としない状況下で、組織目線で断定してしまったからだ。
私自身もサラリーマン時代に、何度か不祥事対応に追われた。メディア報道に一方的なものを感じ、「ちゃんと取材しろよ」「そこ全然違うじゃないか」等々の憤りすら覚えたものだ。
突発的な不祥事報道は、経営企画や広報部門に事実関係が上がっていない事案が多い。それゆえ、報道に触れて慌てて確認を急ぐ。現場や関係部署からは、報道は事実無根あるいは悪意ある曲解だ、と返答が来るケースが圧倒的だ。また、日頃から内部統制を固めていると自負する組織ほど、隙間から漏れていた事案など認めたくない。
その間にも追加の取材要請が雨あられと飛んでくる。世間も騒ぐ。早急に会社としての態度表明を迫られる。重要な顧客や株主、それに多くの社員に明確なメッセージを送らなければならないし、渦中の役職員を突き放すわけにもいかない。
そうなると組織の関係者は馬を下りるどころか、悪路を騎乗で走り抜けようとする。ちょっと待って、と言えず、正確な事実関係が確認できないままにリリースを出す仕儀となる。
後日、当初の認識とは異なる─往々にして真逆の─事実が明らかになって、初動の誤りに気づいても、組織としては自己否定につながるような言動はとりたくない。「このまま押し切れ」と支持する経営トップすらいる。馬の骨折を無視し、悪路を全力疾走してしまうのだ。こうして組織の傷口がどんどん拡大していく。結局、満身創痍で「第三者委員会」に頼るといった無条件降伏となる。
つまり、初動を誤ったときには、馬から下りて足元を見つめ直し、新たな行動に出るべきなのである。すると、節操がない、見苦しい等々、厳しく非難される。しかし、こうしたときこそ判断ミスを修正する胆力が必要だ。傷ついた組織を治癒する唯一の道である。
この年末年始の一カ月以上、D社が話題になった。同社は、所属の大物タレントの醜聞が週刊誌に掲載され、当初、会社として強い否定のコメントを出した。しかし、その後社内調査を進めると、当該タレントと距離を置く姿勢を示し始め、三週間後には当初のリリースを大幅に修正した。