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2024.03.03

マラソンは黄金の卵|山中伸弥教授×小山薫堂スペシャル対談(前編)

放送作家・脚本家の小山薫堂が経営する会員制ビストロ「blank」に、京都大学iPS細胞研究所名誉所長の山中伸弥さんが訪れました。 スペシャル対談第12回(前編)。


小山薫堂(以下、小山山中先生と初めてお会いしたのは、僕が経営している料亭「下鴨茶寮」に、お客様としていらっしゃったときではないかと思うのですが。

山中伸弥(以下、山中ええ。そのあと、カリフォルニア州のナパ・バレーにご一緒しましたよね?

小山:2015年8月です。山中先生がサンフランシスコの研究所で研究をされていると聞いたので、僕がナパに行くタイミングでお誘いして。ロバート・モンダヴィのワイナリーに行き、彼の息子のティムの運転で葡萄畑を巡ったり、フランシス・F・コッポラさんの家に泊まったり。あれは楽しかったですね。

山中:かなりワインを飲んだ記憶があります(笑)。

小山:山中先生がノーベル賞を受賞したのはそれ以前でしたか?

山中:2012年です。

小山:10年以上も前なのか。ノーベル賞を取ったあと、資金の集め方を含め、研究への追い風は感じられましたか。

山中:いや、それ以前、2006年にマウスの皮膚細胞からES細胞という万能細胞に類似した多能性幹細胞の作製に成功したことを発表したんですね。それがiPS細胞です。それまでは本当にただの研究者で、いつも研究室にこもっていたのに、iPS細胞が非常に注目を集めて、人生がガラリと変わりました。6年後のノーベル賞のときよりも変化は大きかったように思います。

小山:世界的な発明・発見はセレンディピティ(思いも寄らなかった偶然がもたらす幸運)によるものが少なくない、といいますよね。iPS細胞はいかがでしたか。

山中:確かにセレンディピティの連続でした。私は1993年、アメリカのグラッドストーン研究所にポスドクとして渡ったんです。研究所では動脈硬化を抑える役割があると考えられていた遺伝子の研究をしており、僕はその遺伝子を過剰に働かせるマウスをつくりました。ところが、健康になるはずが、逆に肝臓が腫れ上がり、肝臓がんになってしまって。

小山:予想外の結果だった?

山中:そうです。それで3年ほどがん研究に没頭し、新しい遺伝子を見つけ、帰国後にさらに調べたところ、がん以上にES細胞にとって非常に大切だということがわかった。それでES細胞の研究を2000年ごろから始め、iPS細胞にたどり着きました。

小山:予想が外れてがっかりするのではなく、目の前の結果に興奮してもっと調べたくなるタイプだったのですね。そもそも山中先生が医学の道へと進んだきっかけは何だったのですか。

山中:父が東大阪市でミシン部品をつくる町工場を経営していたんですが、僕が中学生のとき、父がヤスリで金属を削っていたら、金属片が父の足の脛に。それで骨髄炎になって、その手術で大量出血し、輸血が原因で肝炎にかかってしまった。もともと糖尿病でしたし、どんどん悪くなる父を見て、医師になろうと考えるようになりました。

小山:お父様を助けたいと。

山中:ええ。それに父も「お前は商売には向いてない。工場は継がなくていいから医者になれ」と言っていて。それで医学部に入り、6年後に研修医になったのですが、残念ながら父は翌年、58歳で亡くなりました。この経験から、治療法のない人をどうしたら治せるのかと考え、医師ではなく研究者になることにしました。

小山:医師になったのも研究者になったのも、お父様の影響だったんですね。
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写真=金 洋秀

この記事は 「Forbes JAPAN 2024年3月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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