こんなエピソードがある。黒田がある画家の前で絵を描いていたとき「くろちゃんは、描くときに考えないんだね」と言われたことがあった。しかし、黒田は逆に「ああ、この人は考えて描いているんだな」と思ったのだという。それほど描くときに“考える”ということが、黒田にとっては不思議なことだったのだろう。
黒田の絵は具象と抽象の間にある。言語化されるまえの生の感覚、感情のほとばしり、喜びや悲しみ、呻き、そういったものが、紙やキャンバス、段ボール、板、壁、靴など、ありとあらゆるマテリアルに転写される。
描くという行為は、解するのではなく感じるもの。だから黒田の制作活動は音楽とも相性がよく、ときにミュージシャンとともにライブペインティングを行っている。
相棒・長友啓典との出会い
「いつまでも楕円定規できちっとした線が描けないね」これは黒田の師匠で、戦後を代表するグラフィック・デザイナーのひとりである早川良雄に言われた言葉だという。黒田には生涯で先生と呼べる人が2人いるが、早川はそのひとりだ。
早川の元で修行をはじめた20代の黒田は、デザイナーとして大きなコンプレックスを抱えていた。それは、グラフィック・デザインの正式な教育を受けていないということだった。黒田は10代の頃から小僧、米国船乗務員、日雇い、ボーイと多くの職を経験してきたが、学校や教育とは縁遠かった。
デザイナー仲間が真剣に色彩構成など専門的な技術について議論をしていると、輪に入っていけず、疎外感や劣等感を感じる場面も多々あったという。
そんな日々を送っていた黒田に大きな転機が訪れる。それはK2のもうひとりのデザイナー、長友啓典との出会いだ。長友とは師である早川良雄のもとで出会うが、2人はすぐに意気投合した。長友は、日本有数のデザイン専門学校である桑沢デザイン研究所で巨匠・田中一光に学び、体系的にグラフィック・デザインというものを知っていた。
「長友はキレイ系、僕はキタナ系」と黒田は冗談めかしていうが、長友は黒田が描く絵を「いいねぇ、すごいなぁ」といつも褒めてくれたという。2人の役割として、主に黒田が線を描き、配色を長友が行った。
「僕と長友はお互いがお互いを補い合う存在なんです。ある意味正反対。飲みにいくにしてもスタートは2人とも銀座だけど、2軒目になると長友は六本木で、僕は新宿。だからこそ2人組として上手くいった。長友には僕が必要やったし、僕には長友が必要やった。そういうことです」
配色をいつも相棒の長友に任せっきりの黒田だったが、ある日使いかけのクレパスが集まった小箱を眺めていたときに、ふとこう思ったという。
「なんやら満員電車みたいやな」
満員電車にはいろんな人がいる。男もいれば女もいて、老人がいれば子どももいる。着ている服はバラバラ、身長もさまざま、出身もみんな違う。だったら何もきばらず、おれはおれでええんちゃうか。自信もなにもないがそう思ったという。それからは自分で色を塗ることが徐々に増えていった。