11月23日に新作映画『首』の公開を控える「世界のキタノ」からのメッセージ。
伝統の本質はそこじゃない!
「伝統」や「しきたり」って、勘違いされて、自分たちに縛りをかけてしまっていることがある。例えば、映画やお笑いがそう。新作映画『首』を構想したとき、織田信長について調べてみると、「本能寺の変」で殺された理由は80も説があるんだ。どれが真説かわからない。殺される理由がそんなにあるくらい、やってることがめちゃくちゃ。頭がおかしいとしか思えないんだよ。
これまで戦国武将を英雄として描くのが定番になっているけれど、オイラに言わせたら、桶狭間の戦いに勝ったのは急な悪天候が有利に働いただけで、運がいいだけ。楽市楽座もその前からあったし、調子に乗っているワルなんだよ。
そもそも戦国武将は地元の不良やワルみたいなもので、気に食わなければ人は殺すし、農閑期になると百姓を連れて戦をするし。百姓から見たら英雄でもなんでもない。だから、そういう視点で『首』をつくって、常識とされてきたものをぶっ壊したんだ。
漫才も同じ。ツービートでオイラは漫才をぶち壊したんだけど、先輩たちから怒られたね。ニッカボッカーをはいたり、セーターを着たりして舞台に上がるから、「舞台ではタキシードを着ろ」とか「客にケツを見せるツービートの立ち位置はおかしい」なんて言われて。
でも、衣装や立ち位置なんて、あと付けの伝統だよ。本質はお客を笑わせること。それなのに、わかりやすい見た目で、勝手に「伝統」をつくってしまう。伝統の上にあぐらをかいて威張っていたら、お客はそのうち離れていっちゃう。
逆に、本当の伝統のよさって何なのか。そこをわかる必要がある。
例えば、なんで俳句や短歌の七五調はこんなにリズムが心地いいのか。綾小路きみまろと川柳をやったとき、オイラは「5・7・5って素数じゃないか」と思ったんだ。5も7も素数。足しても素数。
短歌もそう。5+7+5=17、5+7+5+7+7=31、どっちも素数なんだ。「古池や」に続く「蛙飛びこむ 水の音」の7・5は割り算では割れない。「古池や」以外の言葉じゃありえない。
で、奇数を足していくと二乗になる。1+3=4(2の二乗)、1+3+5=9(3の二乗)、1+3+5+7=16(4の二乗)。
これを映画に置き換えてみると、シーンを1秒撮って、次のシーンが3秒、5秒と足していくと、奇数だけ足して二乗になる。映像が倍返しみたいになって、心地よい「間」が生まれるんだ。漫才もそうでさ、奇数と偶数のかけ合いになると間が悪くなっちゃう。
尺の違いに着目して、居合いみたいに間合いを詰めていったら、単なる笑いじゃなくて二乗の笑いが爆発するかもわからない。いままで誰もつくったことがない「二乗のリズム」が映画に生まれるかもわからない。革新の発想だよね。
そんなことを妄想しながら漫才をやったり映画をつくったりしていたら、やることがいくらでもあって、おもしろくてしょうがない。
数学で分解してみると、俳句や短歌がもつ時代を超えた素晴らしさに気づかされる。長く続く本質的なよさが伝統のなかにあるということを気づくには、今までそれに参加できなかった人たちが参加することだと思うね。伝統の上にあぐらをかいている人たちは「自分たちを守る」ために楯として伝統を言い訳にしているだけ。
大事なのは、誰もが気づかなかったことに新しい感覚が導入されることだよ。
「伝統には新しい血が必要」と言うけど、そこに入れなかった一般の人のほうが第三者的に見ているから、よく見えているんだ。