同じことが、ある冤罪事件の被害女性にも起きている。自然死した入院患者を殺害した犯人に仕立てられたが、逮捕から20年近くたった今も信頼した刑事を責めることができずに苦しんでいる。逮捕当時、未成年ではなかったが、女性は軽度の知的障害がある供述弱者だった。
連載「供述弱者を知る」を基にした著書で「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」を受賞した秦融が、捜査機関による不当な取り調べをグルーミングの視点から考える。
アメとムチの取調室 「アイ・ラブ・ユー」と聞こえてしまった
この冤罪被害者は、2020年に再審無罪になった西山美香さん(43)=滋賀県彦根市。2005年に大津地裁で懲役12年の判決を受けた西山さんは2017年に刑務所を満期で出所した。出所した当時は「浦島太郎」の状態で、様変わりした世の中にとまどい社会復帰ができずに苦しんだことは、前回のシリーズで伝えた。
実は、より深刻なのが「心の問題」だった。
「私をだました刑事が悪い、と周りの人に言われ、頭では分かる。でも、憎んだり、恨んだりする気持ちになれない。だまされた自分が悪い、と自分を責めてしまい、苦しい」
2004年に逮捕されてから19年が過ぎた。なぜ、自分を冤罪に陥れた刑事を憎めないのか。
「取調室で話を聞いてくれたことが何より大きい。小さい頃から親や先生に優秀なお兄ちゃんと比べられてつらかった、と話すと、すごく真剣に聞いてくれ、私のことを認めてくれた。あの時の気持ちがまだ心に残っている」
西山さんには、エリートコースを歩んだ2人の兄がいる。
服役中、両親に送った手紙に「他の人は兄と比べて、私はだめ人間みたいに言ってきたのに(取調官の)刑事は『西山さんはむしろかしこい子だ』『普通と同じでかわった子ではない』と言ってくれた。心を許していこうと思った」と書いている。刑事は、幼いころからコンプレックスに悩む苦しみから初めて彼女を「救った人」だった。「それが男の人だったことも大きい。私には異性と交際した経験がなかったから」。密室の中で西山さんが心を寄せる圧倒的な存在になっていた。
取調室の中はアメとムチの世界。甘い言葉の先には危険が待っている。だが、被疑者は外部との接触を断たれ、孤独はときに理性を奪い、正常な判断ができなくなる。未成年者や障害のある人にとっては、なおさらだ。
一方、捜査機関はここが落としどころと見たのだろう、西山さんを“完落ち”させるため、差し入れ攻勢に出た。再審判決では、西山さんが大好きなオレンジジュースが毎日のように取調室に運ばれてきたことが認定された。実際は、それだけではなかった。弁護団によると、シャトレーゼのケーキ、マクドナルドのハンバーガー、ミスタードーナッツのドーナッツなどが取調室の西山さんに届けられた。西山さんによると、こんなこともあった。
「マクドナルドの差し入れがあったとき、フライドポテトがすごく熱くて、思わず『アツ(熱)っ』てなった。私、猫舌だから。そしたらその刑事が『熱いのは僕の気持ちと同じだよ』って言ったんです。普通の人は、単なる善意の言葉と取るかもしれないけれど、留置場に入れられて寂しかった私は『アイ・ラブ・ユー』と聞こえてしまったんです」
警察が行った不正は飲食物の差し入れだけではなかった。