マイクロソフトだけでなく、グーグルやアップルのような巨大IT企業の開発拠点は、経済成長や人材育成の鍵を握るので、各国政府からみるとノドから手が出るほど欲しい存在だ。国が拠点の整備費や運営費まで丸抱えする事例すらある。
笠置からの情報を得た神戸市はすぐに動いた。今回の開発拠点の利用者はあくまで民間企業だ。エンジニアたちが集まる場所は都市の機能に不可欠と判断し、この施設を利用しそうな地元の企業を訪問して、説明を続けた。
ところが、AIを使った開発と言われても、自社でどのように使えばいいのか、即断できる経営者はほとんどいない。
しかも、誘致が決まったわけでないので、神戸市の職員も十分な情報を持ち合わせていない。さらに秘密裏に事を進めないといけない困難のなかで、神戸側の職員も暗中模索の手探りを続けたという。
その頃、笠置は、シリコンバレーに拠点がある神戸の企業に説明するなど、米国からの側面支援を続けた。
そんななか、神戸を代表する企業である川崎重工の経営者たちに、笠置がシリコンバレーで掴んだ情報が伝わる。すると、事実上の方針決定が下されるのは、あっという間だった。
というのも、同社はマイクロソフトと共同で、バーチャル空間でものづくりの設計、開発から試験までを行う産業用メタバースの開発を進めようとしていた。その発表を翌月に控えていたときに、笠置の情報が伝えられたからだ。
川崎重工といえば、鉄道車両、航空機、ガスタービン、油圧機器などを手掛け、その技術力の高さから、いくつもの分野で世界トップシェアを持つ。今回のマイクロソフトの拠点設置が、同社に何をもたらすのかがクリアに見通せていたようだ。
さらに同社は、自社だけでこの「AI Co-Innovation Lab」を囲い込むことはせず、他の企業でも使いやすいようにと、神戸市の三宮にある神戸商工貿易センタービルでの開設を後押しした。
すでに、地元洋菓子メーカー「ユーハイム」は、ベテラン職人のバウムクーヘンの焼き方を再現するAIの開発を米国のラボで実践していた。iPS細胞の網膜移植で知られる高橋政代が率いる医療スタートアップ「ビジョンケア」は、医者個人の能力差をAIで埋める仕組みを神戸のラボでつくろうとしている。
笠置が情報を掴んでから「AI Co-Innovation Lab」開設まで2年かかったが、その間ChatGPTが毎日のように話題になるなどAIをめぐる環境は大きく変化していた。
神戸市役所のある幹部は、笠置に「雨降って地固まる」とつぶやいたという。時間はかかったが、地元の大企業が主導して、地元の中小企業が先端技術につながりやすくなる、地域経済にとっていちばん良い姿が実現したという意味だ。
実を言うと、笠置が神戸市に採用されるときに「ホームランを狙え」と言ったのは筆者だ。彼が放った会心の一打に、感謝の言葉を送りたい。
そんな彼の市職員としての任期は来年7月まで。このような滅多にできない成功体験を得た彼の今後の活躍が、楽しみでならない。