イベントに無関心な「ガチ中華」の人たち
そんな記憶がずっと残っていたので、今年9月24日、池袋を訪ねた筆者は、「国際交流みこし」が30年間も続けられていたことを知って驚き、いかにも池袋という土地柄を象徴する取り組みだと思ったのである。この日、「担ぐ会」の関係者や参加外国人に話を聞く機会もあった。そこではこんな声も聞かれた。
「本来であれば、日本人と外国人の区別なく、同じ『区民』や『都民』として交流するべく、とりわけ区内で人口の多い中国籍の皆さんに担いでもらいたい思いはあるものの、実際にはそうなっていないように感じる」
ここでいう「中国籍の皆さん」とは、近年池袋に急増した「ガチ中華」のオーナーや従業員たちのことである。彼らは必ずしも区内居住者とは限らないが、店は「国際交流みこし」の舞台となる池袋西口の商店街に集中しているからだ。
「ガチ中華」の知り合いが多い筆者は、この話を聞いて考えさせられた。なぜ彼らは地元の祭りに参加しないのか。いくつかの理由が考えられる。
まず彼らからすれば、池袋のような在住人口が少ない都心の商業エリアにおける地域社会の実情が見えにくいことがあるだろう。地域に縁のある人たちや同好の士が集まり、神輿を担ぐことで支えられているのが今日の祭りの姿であり、それは日本人にはよくわかる話なのだが、彼らには何が起きているのか理解できないかもしれない。
中国政府の検閲を受けずに製作された中国のインディペンデント系ドキュメンタリー映画の作品などを観るかぎり、1990年代くらいまでは、中国各地でローカル色豊かな祭りや冠婚葬祭が行われていたことがわかるし、当時筆者もそのような場に出会ったことがある。
だが、21世紀以降、少なくとも中国の都市部では、宗教施設の行事を除けば、日本のような地縁をベースにした祭りの多くは消滅しているように見える。
「担ぐ会」に参加した中国人留学生たちに聞くと、故郷で日本の祭りのようなものを見たことがないという。それゆえ、若い彼らは多くの参加外国人と同様に、興味深い体験だったと興奮気味に話していたのが印象的だった。
一方、池袋の「ガチ中華」の人たちは、前述のように地域のイベントに対する関心がほぼないといっていい。率直に言えば、彼らには自分が地域とつながっているという自治意識のような観念はなく、こうした祭りを支える人々の精神的な背景や日本の民主社会の成り立ちについても想像すら及ばないだろう。
自治体をはじめ、彼らにそれを教えてくれる人がいないからでもある。だから、地元の人たちの熱意や思いが伝わらない。相手が何を考えているかわからないため、伝え方もわからない。
なにも筆者は皮肉を言いたいのではない。こうした双方のディスコミュニケーションは池袋に限らず、日本各地で見られることだと思うが、そこに今日の多文化社会の内実を理解する難しさがあることを痛感したのである。
連載:東京ディープチャイナ
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