怒りに突き動かされて忘れていたこと
事件の余波はやがて思いがけない出来事を引き起こしてしまうのだが、花音をはねた女性ドライバーの母が充に、娘のことを涙ながらに話すくだりで、おそらく充は何かに気づいただろう。その証拠に次のシーンでは、花音の着ていた制服やカバンなどが警察から戻ってきており、花音の描いた何枚かの油絵を見ている充の姿がある。
こうして充は、直人への怒りに突き動かされて忘れていたこと、つまり、花音という娘の本当の姿を自分はちゃんと見ていなかった、それは自分の中で「空白」だったという事実に初めて対面するのだ。
次の場面で充は、戻ってきた弟子の龍馬に、事件後初めての笑顔を見せている。彼との一連のシーンから、龍馬は娘を失った充の擬似息子となるだろうことが予想される。
充の中から憎悪はいつのまにか消えており、関心は今はなき花音の実像に向けられ、その延長線上で彼は花音のある秘密を知る。
美術部に所属し、人より少しやることが遅く、やる気があるのかないのかわからないと教師からも見做され、無口で目立たず誰にも強い印象を残さなかった花音。台詞もほとんどない。しかし彼女が万引きしたささやかな商品には、目立たないなりに少しは輝きたいという少女のいじらしいような欲望が滲んでいた。
自分に見えていなかった「空白」にやっと気づいたとしても、充がこうしたデリケートな娘の気持ちを十分に理解することはないだろう。それは、娘に対する父親の限界というものかもしれない。「空白」を空白のまま父親に受け止めさせたところには、父と娘の関係についての一歩引いた視線が感じられる。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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