充が直人を憎むのは、被害者の親だから仕方がない面はあるが、メディアは憎悪のなかったところにわざわざ憎悪を作り出していく。人が何かを憎むように仕向ける振る舞いは、充の詰問から逃れたい校長が、彼の矛先を直人に向けさせるような弁を吐くところにも現れている。
こうして見てくると、最初は突出しているように感じられた充の暴力性は、彼を取り巻いている他者への「懲らしめ」を促すようなより陰湿で大きな暴力に比べて、ずいぶん素朴に思われるほどだ。
なぜ矛先は直人へ?
しかし、充の憎悪の矛先はなぜ事故を起こした女性ドライバーに向かわず、間接的に事故の要因を作ったことになってしまった直人に集中したのだろうか。スーパー店長の青柳直人を演じた松坂桃李/ Getty Images
女性ドライバーは、悪意があって花音をはねたわけではない。しかし、直人は花音に万引きという”無実の罪”を着せている──。もちろん直人は嘘をついていないのだが、充はその事実を認めない。「直人にはきっと花音への悪意があった、自分は父親としてその悪を憎み懲らしめたいのだ」というのが、己の行動に対する彼の言い訳だろう。ここにも「懲らしめ」欲がある。
だがそうすると、学校に対して「いじめがあったんじゃないか」と問い詰めていることと、矛盾が生じる。花音はいじめに遭っていて、その流れで万引きを強要されていたという筋書きになるからだ。
つまり、充は本当のところは、花音の万引きに半信半疑だったと思わざるを得ない。ただ霊安室で無惨な娘の姿を見て慟哭した時、充の中に、何かに憎悪をぶつけないではいられない強い衝動が生じたのだろう。何らかの「悪」が花音を死に至らしめたのだと、充は信じたかった。不幸な偶然によって娘の命が奪われたという残酷な事実を、そのまま受け入れることができなかったのだ。
世の中を善と悪に分け、善の立場で悪を糾弾しようとする姿勢において、充と麻子は似ている。麻子の場合、直人への恋愛感情がその姿勢に拍車をかけているのは明らかなので、直人を叱咤激励したり妙に正義を振りかざしたりする態度はわりとわかりやすい。
充の場合は、何らかの悪の存在を措定しないことには娘の突然の死を受け入れられないという親の心理だ。さらにそこには、彼自身が決して見ようとしていない盲点がある。その盲点を突くのは、元妻で花音の母である翔子である。陰ながら花音の相談相手となっていた翔子は、充に鋭い指摘を投げる。
自分が娘と向き合っていなかったことが、巡り巡って娘の不幸を招いたのかもしれないという微かな罪悪感を、充はすぐさま認めることができない。だが、翔子の問いかけは時間をかけてじわじわと効いてくる。