だが、BTR-50Pは武装も装甲も薄い。より重装備のBMP-1の運用が1966年に始まると、何千両ものBTR-50Pが後方の部隊に配備された。
BTRはMT-LB牽引車に取って代わられるまで砲兵や工兵、対空砲を輸送した。昨年時点で、ロシア陸軍が運用していたBTRは一握りの古いBTR-50Pと、若干近代的な司令車両のBTR-50PUだけだ。
しかし新型のBTRやBMP、MT-LBの損失が急増し、新車両の生産ペースがそれに追いつかなかったため、ロシアは春に長期保管庫におそらく数百両あるBTR-50の一部を引っ張り出し始めた。
予備のBTRは司令車両や砲兵支援車両として第二線で役割を果たすだろうという見方があった。だが目が利く一部の人は、通常の重機関銃の代わりに23mm機関砲を搭載した重量15トンのBTR-50をいくつか発見した。
ロシア軍が歩兵支援車か粗末な防空システムとして、この武装強化を施したBTR-50を前線近くに送り込むつもりだったのは明らかだった。
古ぼけたBTRはそうした役割では破滅の運命にあった。少なくとも1両はアウジーイウカ郊外で爆発してひっくり返り、周辺には死亡した兵士が山積みになった。
BTRの乗員や乗っていた歩兵にとっては悲劇だが、ロシア軍のアウジーイウカ攻撃は主に象徴的な意味合いしかなかったようだ。寒さと地面のぬかるみでどちらの側も進軍が難しくなる冬の到来を前に、「勝利」と呼べるものを収めようとしていたとみられる。
この攻勢の象徴としての役割は、今のところ失敗に終わっている。これが象徴したものがあるとすれば、それは「失敗」だ。ロシアは、実質的な軍事的価値がほぼない目標に向けて準備不足の攻勢を決行し、兵士を時代遅れの車両に乗せて、死が待つ前線に送り込んだのだ。
(forbes.com 原文)