たとえばロイター通信は今年9月にジャニーズ事務所の謝罪会見を取材した際に、「日本国民の怒りの感情は、ハーベイ・ワインスタイン(映画プロデューサー)やジミー・サヴィル(テレビ司会者)の性的スキャンダルの発覚後に、アメリカ人やイギリス人が示した反応と似ている」と述べている。しかしここでは、2016年に発覚したアメリカ体操連盟における性加害事件と対にして考察したい。
「膣に指を挿入」、「乳房を揉む」──
アメリカ体操連盟における性加害が最初に明るみに出たのは2016年8月。連盟のお膝元であるインディアナ州の地方紙『インディアナポリス・スター』が警察や裁判所などの記録を1990年までさかのぼって調べた後、アメリカ体操連盟の男性コーチ4人が少なくとも14人の未成年の女子アスリートに対し、「女性器に指を挿入する」「女性器を動画撮影する」「服の中に手を入れて乳房を揉む」「着替えを盗撮し、裸の写真をインターネット上にさらす」などの性加害を働き、8~36年の禁固刑に処されていたとスクープしたのだ(コーチ4人のうち1人は起訴された後に拘置所で自殺)。
奇しくもリオデジャネイロ五輪の開幕前日に掲載されたことも相まって、『インディアナポリス・スター』スクープは大反響を巻き起こし、より悪質な性加害者の特定につながる。
「被害女性265人」の医師に40~175年の禁錮刑
その名はラリー・ナサールといい、ミシガン州立大学および州内の高校で医療活動に従事する傍ら、アトランタ五輪が開催された1996年から2015年までアメリカ体操連盟の医療コーディネーターを歴任した人物だった。2018年1月に裁判が結審するまでに、ナサールに性加害されたと訴えた女性は265人に上る。
しかも、マッケイラ・マロニー(ロンドン五輪団体操女子団体で金メダル、個人跳馬で銀メダル獲得)、アリー・ライズマン(ロンドン五輪とリオデジャネイロ五輪の団体と個人で金・銀・銅のメダルを6個獲得)といったトップアスリートもその中に名を連ねたため、ナサールによる性加害は全米を揺るがすスキャンダルとなった。ロイター通信をはじめとする各メディアが報じたとおり、ナサールには40~175年の禁錮刑が言い渡された。被告人席に座っていたナサールが54歳だったことを考えると、これは事実上の終身刑だ。
ジャニーズとの類似点と差異は?
さて、ジャニーズ事務所の性加害問題とアメリカ体操連盟における性加害事件の類似点と差異は何だろうか。日本とアメリカでは法体系が異なり、ジャニー喜多川氏が天寿を全うしたのに対してラリー・ナサールが存命で収監されたという差異があるのは百も承知だが、次に列挙する。
異常な性的嗜好
欲望の対象が少年なのか少女なのかという違いがあるとはいえ、喜多川氏もナサールも性嗜好異常(パラフィリア)を抱えていたことは間違いないだろう。
ジャニーズ事務所の再発防止特別チームは喜多川氏について、「被害者の年齢層(中心は13~15歳)がいわゆる小児性愛(13歳以下)に比べ定義上は若干高くなるものの、まさに性嗜好異常の一型とみなすことができる」と報告書で指摘している。
かたやナサールの場合は後述するとおり被害者の年齢層がもっと高く、女子高生や女子大生も性被害に遭っていた。その一方で、俳優の服部吉次氏が8歳だった頃に喜多川氏から性加害を受けたと今年7月の記者会見で明らかにしたように、6歳でナサールに性加害されたと訴えた女性もいる。彼女はカイル・スティーブンスといい、ナサールを訴えた265人の女性の1人でもある。彼女は6~12歳までの間にナサールから性加害を受けていたものの、家族に信じてもらえなかった。このためスティーブンス一家は機能不全となり、父親が自殺したとロイター通信などは報じている。
長期性と大規模性
サラ・テリスティという女性は1988年の時点でナサールから性加害を受けていた。彼女は体操経験のある一般人で、被害当時は14歳だった。テリスティは『TIME』の取材に対し、「上半身を裸にして乳首を氷で冷やす」「乳首にじかに触れる」「女性器や肛門に指を挿入する」などの被害に遭ったと語っている。
一方、トップアスリートのマロニーは2017年の#MeToo運動に後押しされ、「13歳だった時に初めてナサールの性加害を受けて以来、2016年に引退するまで性加害は終わらなかった」と自らのTwitterで打ち明けた。
#MeToo pic.twitter.com/lYXaDTuOsS
— mckayla (@McKaylaMaroney) October 18, 2017
つまり、ナサールは少なくとも1988~2016年の28年間で、256人の女性に性加害を働いていた計算になる。これに対し、喜多川氏の性加害はさらに長期かつ大規模であり、ジャニーズ事務所の再発防止特別チームによる報告書には「1970年代前半~2010年代半ばまでの間」「少なく見積もっても数百人の被害者がいる」と記されている。
「目の届かない」ところで巧みにグルーミング
喜多川氏は日本の芸能界を象徴する芸能プロダクションの創業者でありプロデューサーという立場を利用し、言葉巧みに少年たちを合宿所と呼ばれる高級マンションに呼び集め、保護者の目の届かないところで性加害に及んでいた。
かたやナサールの場合、地元の体操教室やミシガン州立大学の構内、果ては自宅だけでなく、アメリカ体操連盟のトレーニングセンターも性加害の温床の1つだったと、マロニーは『ELLE』の取材で振り返っている。
当時のトレーニングセンターはテキサス州の人里離れた国立林の中にあり、マロニーやライズマンのようなトップアスリートは月に1度そこで合宿形式のスパルタ指導を受けなければならなかった。10代の成長期だった彼女たちにとって、携帯の電波が通じず、保護者ですら立ち入りできないトレーニングセンターはストレスフルな環境である。
ナサールはそんな状況下で医療コーディネーターという立場を悪用し、表向きはアスリートに親身に寄り添い、裏では性加害を働いていたのだ。前掲の『ELLE』の取材に対し、マロニーは「偉大なアスリートになるには、他人がやらないことをしなければならない」とナサールに言いくるめられた、と語っている。また、15歳から性被害に遭っていたランズマンはESPNの取材に対し、「本来トレーニングセンターには持ち込み禁止だったおやつを食べさせることで、ナサールは私をグルーミングし、性加害に及んでいた」と述べた。
ジャニーズ事務所の再発防止特別チームの報告書には次のような文言がある。「加害者が巧妙に、子どもたちを『罠』に追い込むことにより、子どもは性加害に応じることを余儀なくされたり、あるいは子どもから望んで応じたような態度を示したりすることすらある」。これはナサールにも当てはまらないだろうか。
組織の隠蔽体質とガバナンスの不在
喜多川氏による性加害が大規模かつ長期にわたった要因として、姉のメリー氏が「何らの対策も取らずに放置と隠蔽に終始したこと」がジャニーズ事務所の再発防止特別チームの報告書で指摘されている。
アメリカ体操連盟の隠蔽体質も、『インディアナポリス・スター』による前掲のスクープ第1弾で浮き彫りになっていた。というのも、同紙は「性被害者ないし保護者が実名で名乗り出ない限り、苦情申告は単なる伝聞として扱われ、却下されるのが通例だった」「我々には、指導者からの性加害の苦情申し立てを当局に報告する義務がなかった」とするアメリカ体操連盟の元幹部による証言や談話を紹介していたからだ。
ミシガン州立大学も長年にわたってナサールの性加害を隠蔽していた。実際にナサールを訴えた265人の中には、同大学の陸上部やソフトボール部、バレーボール部などに所属していた1990年代末~2000年代初頭に性被害に遭った女性たちも加わっている。同大学の青少年プログラムに高校生だった頃に参加し、ナサールの餌食になった女性も裁判で陳述したが、NBCニュースの報道を見る限りでは、同大学の指導者やコーチの対応は適切とはいいがたく、「ナサールはトップアスリートの治療をしている名医だ」と言いくるめているケースさえ見受けられる。
口止め料と秘密保持契約
ハーベイ・ワインスタインの場合と同じく、アメリカ体操連盟はマロニーに対しては口止め料を払い、秘密保持契約を結ばせていた。つまりマロニーのTwitterによる告白は、この秘密保持契約に違反する行動であり、彼女はアメリカ体操連盟から逆に訴えられるリスクを冒して#MeToo運動の輪に加わったのである。このため、マロニーは裁判で陳述したら10万ドルの違約金を請求されるおそれがあったが、女優のクリスティン・ベル、スーパーモデルのクリッシー ・テイゲンらがSNSで違約金を肩代わりすると表明。かたやアメリカ体操連盟は批判の的にさらされ、マロニーに違約金を求めないという声明を出す羽目になったと、E! Onlineは報じている。
さらに付け加えると、ナサールはミシガン州立大学医学部で医師免許を取得していた。アメリカの医師免許は州ごとに発行されるため、勤務先の州が変わることになったら、当該州で再取得しなければならない。にもかかわらず、ナサールはテキサス州にあったアメリカ体操連盟のトレーニングセンターに自由に出入りしていたのだ。
明らかにこれはアメリカ体操連盟のガバナンス不足である、ナサールの裁判が結審した2018年1月、ランズマンはNBCのニュース番組『トゥデイ』のインタビューに応じた時の動画と共に、「説明責任はどこにあるのか? どうして彼の出入りが許されていたのか?」とTwitterで糾弾している。
According to my knowledge, Larry Nassar did not have a medical license in Texas where we trained for the Olympics. Where is the accountability? How could you allow this? @USAGym @TeamUSAhttps://t.co/yFWD0zSxCc
— Alexandra Raisman (@Aly_Raisman) January 25, 2018
桁違いの代償に、連邦破産法申請も
ナサールの裁判が進む過程で、アメリカ体操協会とミシガン州立大学のトップは何度も交替しており、ナサールの性加害を見過ごしていた指導者たちも職を辞した。『USAトゥデイ』やESPNによると、アメリカ体操連盟はAT&T、P&G、アンダーアーマー、ザ・ハーシー・カンパニーといった大口のスポンサーを次々と失い、ミシガン州立大学の入学希望者数は2016年秋時点で37480人だったが、2017年秋は36143人(前年比約3.6%減)、2018年は33129人(前年比約8.3%減)と2年連続で減少した。
また、テキサス州のテレビ局KHOUは、ナサールの裁判の結審に合わせて同州にあったトレーニングセンターが閉鎖されたと報じている。
和解金は桁違いで、ミシガン州立大学の支払額は5億ドルだとAP通信などが2018年5月に報じた。アメリカ体操連盟も3億8000万ドルの支払で合意したが、実のところアメリカ体操連盟はこの時点で連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)を申請していた。このため、上部団体のアメリカオリンピック・パラリンピック委員会が約3440万ドルを肩代わりすると共に、アメリカ体操連盟に約610万ドルを貸し付けたとCNNなどは同年暮れに伝えている。
再発防止と信頼回復へ─変化と施策
すでに2017年の時点で、アメリカ体操連盟は70にわたる改善箇所を列挙した報告書を、アメリカ政府が派遣した元検察官から受け取っていた。アメリカ体操連盟はこれを遵守しながら、組織再建を進めている。AP通信などによると、アメリカ体操連盟が2022年時点で実施したアンケートに対し、アスリート178人のうち73%が「変化に向けたアイデアを自由に表現する」手段があり、女性アスリートの78%がアメリカ体操連盟は「協力的な」環境を作り出していると回答したという。また、ナイキやコムキャストなどが2023年にスポンサーになった点からも、アメリカ体操連盟が失った信頼を徐々に取り戻していることが窺える。
一方、ミシガン州立大学は2017年以降、ナサールが起こした性加害の被害補償の進捗を随時ホームページで公表しており、アメリカ教育省から要請された33項目の改善を2020年9月時点で達成したという。
同大学の入学志望者数も、2019年秋は44322人(前年比約33%増)、2020年秋は45426人(前年比約2.4%増)、2021年秋は50630人(前年比約11.4%増)とV字回復している。
では、喜多川氏の性加害問題はどのような形で決着がつくのだろうか。ジャニーズ事務所の評価額は一説によると数千万億円といわれているが、今年9月の記者会見で言及された「法の枠を超えた補償」は果たしてどれくらいなのか。社名変更や株主構成の変更を含んだ「身を切る改革」をどのくらい実行できるのか。上述のアメリカ体操連盟やミシガン州立大学の先例と照らし合わせつつ、注視したい。
水科哲哉(みずしな・てつや)◎日・英・韓の3カ国語を解するライター/編集者。ビジネス書、自己啓発書から、政治や歴史関連本、科学書に至るまで、60点以上の多岐にわたる翻訳書の編集制作に従事。『DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー』『Forbes JAPAN』などの記事翻訳にも携わる。音楽ライターとしても活動中。アンフィニジャパン・プロジェクト代表社員。Twitter @Tmizushina