自民党AA研の講演一日前の1973年8月8日午後1時すぎ、飯田橋のホテル・グランドパレス22階。金大中が部屋から廊下に出て、いつものように不自由な片足を引きずりながら歩きだすと、スーツ姿の数人の男たちに羽交い締めにされた。足を蹴られ、麻酔薬をかがせられたという。金大中は男たちに横向きで抱えられて、エレベーターから地下駐車場に運ばれた。運悪く、金大中の護衛は一階のロビーに待機中で、拉致に気づけなかったのである。
金大中は目隠しをされたまま、乗用車で神戸市灘区にあったアジト「アンの家」に連れ込まれた。そして神戸港からモーターボートに乗せて、沖合に停めていた工作船「龍金号」に運ばれ、船は韓国に向かった。金大中の体は戸板にロープでぐるぐる巻にされ、手足に50キログラムほどの重しをつけられたという。船底に放置された状態が続いたが、デッキに担ぎ上げられて海に投げ込まれる瞬間、警告を発する飛行機が船上に近づいてきたのである。まさに間一髪だ。海への投機は寸前で止められて、海底に沈める暗殺計画は中止となった。そして金大中はソウル市内のガソリンスタンドに放置される格好で、解放されたのだ。
一方、日本では大騒ぎとなった。白昼堂々と行われた拉致事件、しかも、指紋から韓国大使館一等書記官の犯行であることが割り出されている。被害者は大統領候補であり、犯行はKCIA。主権侵害の外交問題だ。
坪山さんが言う。
「当時の田中角栄内閣の官房副長官だった後藤田正晴さん(元・警察庁長官)から、私はこう命じられた。
『姿を隠してくれ。警視庁と公安調査庁が網を張っている。網にかかるなよ』。
網からすり抜けて、私は釣り人になって三カ月半の間、伊豆半島を回った。一緒に調査を行った社員(元自衛隊員)とずっと釣りをしながら半島を回るんだけど、時々、自宅に電話をすると、香港に逃げていた金東雲から何度か私の自宅に電話が入っていたそうだ。何を話したかったのかはわからない。ただ、金大中の居場所を割り出す依頼が、実は暗殺する計画だったと知ったのは、事件から33年後の韓国政府の調査報告が公表された時だったね」
さて、このインタビューから十数年がすぎた今、レポートを読み返すとインタビュアーとして「ザル」だったことに気づき、赤面した。歴史的事件の当事者に初めて話が聞けたことに興奮していたせいか、重要な謎を解くための質問をしていない。事件直後、国会では共産党が自衛隊の関与を追及し、シビリアンコントロールの逸脱と騒がれた。しかし、事件の一年前まで警察庁長官だった後藤田正晴が、なぜ一民間人の坪山さんに「姿を隠せ、東京から離れろ」と指示をするのだろうか。坪山さんは、「自衛隊を辞めた後に設立した民間会社が請けた調査依頼」というが、後藤田は指示する立場にはないはずだ。坪山さんと後藤田は直接連絡を取り合っていたという話だったように私は記憶しているが、指示の伝達役がいたとしたら、どういう立場の人間が坪山さんに後藤田の指示を伝えていたのだろうか。