「そのためには、ひとつひとつの工程をさらに丁寧に行い、仕事のクオリティを上げることが大切でした。他社の製品とは違うオリジナリティを追求し、唯一無二の製品を生み出さなければ」。そう考えた山脇さんは、これまで以上に職人と密にコミュニケーションを取り、作りたい商品にあわせて各分野の職人を選ぶという工程に力を入れた。
当時、堺に鍛冶屋は約60軒、刃付け屋は約130軒も存在していた。その中からどの職人を選んでどう仕上げるか、それが問屋の腕の見せどころだったという。ところが、その頃から刃物を作る会社や職人がみるみる激減。世の中では機械を使った大量生産化が進み始めた頃だった。それに加え、職人の高齢化や後継者不足といった問題も重なった。
「もう職人を選んでいられるような状況ではなくなったわけです。かと言って、製品のクオリティを下げるわけにもいかない。そこで、自社で刃付けの工場を持つという構想が生まれました。そこが2つめのターニングポイントでした」
構想を練り始めたのは約20年前。実際に刃付けの工場が稼働しだしたのは13年前のこと。実現まで7年という年月がかかったのは、工場を用意しても中で働く人がいないという問題があったからだ。
「ただでさえ職人が減っているなか、この狭い業界でヘッドハンティングをすれば不要な軋轢を生んでしまう。自社内に職人を抱えるというのは、難しい問題でした」
職人志望の青年との出会い
ある日、1人の青年が会社を訪ねてきた。伝統工芸に憧れており、ここで働かせてほしいという。そこで山脇さんは、知り合いの鍛冶屋や刃付け屋に相談した。だが、返答は「もう弟子は取らない」というものだった。その理由は3つ。
(1)足手まといになる (2)給料を払えない (3)成長したらやがてライバルになる
後継者不足に悩んでいるかに見えた職人業界だったが、実は、後継者を育てようとしない(育てられない)という内情もあったことにそのとき気づいたという。しかし「せっかくの職人志望の青年を一体どうしたものか」と考えていたタイミングで奇跡のような話が舞い込んだ。とある刃付け職人が自分の工房を畳んで引退を考えているという。
「すぐにその職人に連絡を取り、技術を伝授してほしいと頼み込みました。その方が仕舞うつもりだった工場と道具一切を買い取り、指導料も支払うという形で職人の育成をお願いしたのです。現役の職人は技術の流出を嫌がるものですが、引退する職人は自分の技術を人に伝えたくなるもの。ありがたいことに、需要と供給が噛み合いました」