市場の予想はかすりもしていない。米マサチューセッツ工科大学(MIT)経済学部大学院で経済を学んだ植田総裁は、ほぼ例外なく、既存の枠組みにとらわれない考え方をする人物だとみられていた。独自路線を貫き、ちょっとした魔法と、わずかな幸運、立派な度胸で、2001年の導入以来、23年も続いてきた量的金融緩和政策に終止符を打つだろうというのが、大方の見方だった。
そう目されていた1つの理由は、植田総裁が1998年から2005年まで、日銀の政策委員会審議委員を務めていたことだ。当時は日銀が、世界の中央銀行に先立って量的緩和政策を導入した時期だ。しかし、当時の政策委員会審議委員だった植田総裁は、恐れることなく横槍を入れ、正当な理由があれば、金利についても異議を唱えていた。要するに、債権トレーダーに対して、覚悟せよと言っていたのだ。
ところが、予想は外れた。植田総裁は、前総裁の黒田東彦氏が断行したレベル以上の、超がつくほどの量的緩和政策をいっそう貫いているといって間違いない。
黒田前総裁が日銀の総裁に就任したのは2013年で、日本が量的緩和という実験をスタートさせてから、すでに13年近くが過ぎていた。黒田前氏は、量的緩和をさらに拡大・加速させた。与党自由民主党は黒田氏に対し、デフレからきっぱり足を洗うために必要な自由裁量を与えたのだ。
こうした戦略は、当時の欧州中央銀行(ECB)総裁マリオ・ドラギに、筋肉増強剤を打ったようなものだった。ドラギは、黒田前総裁が就任する1年前の2012年、ユーロを守るためなら「何でもやる」という悪名高い発言をした人物だ。
注目したいのは、ドラギと植田総裁がともに、MITで同じ経済学者から指導を受けていたことだ。その経済学者はスタンレー・フィッシャー。後に国際通貨基金(IMF)、米連邦準備理事会、イスラエル銀行で要職を歴任した人物だ。
ドラギは2012年から、ドイツ連邦銀行の古い役人にはとても理解できないような、大がかりな景気刺激策を展開した。それに触発されたかのように日銀も、成長率を回復させるべく、これまで以上の大規模な景気刺激策を打ち出した。