「歌舞伎を嫌いになったり、役者を辞めようと思ったことは一度もありません。そもそも役者としての自分とプライベートの自分に境目がない。歌舞伎だけを切り離すなんて考えたことがない」
八代目市川染五郎は、生まれたときから歌舞伎役者だった。父は松本幸四郎、祖父は松本白鸚。かつてふたりが名乗った名跡「市川染五郎」を12歳で襲名した。世襲の世界で生きていくことに迷いはなかったのかと問うと、落ち着いた口調でこう答えた。
最初は遊びの延長だった。初お目見えは2歳のとき。歌舞伎の舞台や映像を見てマネして遊んでいるうちに4歳で松本金太郎を名乗り、初舞台を踏んだ。
幼稚園の卒園アルバムで、将来の夢は「アイアンマン」と書いた。「歌舞伎役者じゃないの?」と聞かれて不思議に思った。「これから歌舞伎役者になるわけじゃない。自分はすでにそうなのに」。生まれた時から梨園で暮らしてきた染五郎にとって、歌舞伎は分かちがたい自分の一部だった。
染五郎襲名後の活躍は、歌舞伎の枠にとどまらない。22年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では源義高、23年は映画『レジェンド&バタフライ』で森蘭丸を演じて話題に。アニメ映画の声優やVaundyのMV出演も経験した。歌舞伎役者としてスケールアップするための挑戦かと思いきや、そうではないという。
「少しでも自分を必要としてくださるなら、そこに挑戦しようという気持ちです。他ジャンルでの経験を必ずしも歌舞伎にもち帰る必要はないと思っています。歌舞伎のためにほかのものをやるって、その作品にかかわっている方に失礼じゃないですか。現場では作品のことだけを考えています」