2023.08.13

日本車からリードを奪うのは韓国車。しかも中国車が猛追!

英国で走るヒョンデ車。海外での韓国車の台数は増えている。(著者撮影)

今、ロンドンに来ている。昨夜、英国人の同僚で、古参の有名ジャーナリストとの食事した際に出てきた話を、掘り下げてみたい。

きっかけは、同僚の父親が、なぜ70年代に日本車を買ったのか、だった。その理由は、「日本車は性能が良くて、価格が手頃」だったから。「自分がまだ子供の頃、そんな早くから、父は日本車の凄さを知ってたんだよね」と言う。「日本製のクルマなら、寒い冬の朝でも、確実にエンジンがかかるのだから」

70年代になると、英国にはトヨタなどの日本車の輸入が始まり、現地の自動車環境は完全に変わった。つまり、トヨタ・カローラやホンダ・シビックなどの、手頃な価格設定、充実した装備、疑う余地のない信頼性を備えた日本製品が、英国で正真正銘のゲームチェンジャーとしての地位を確立した。「日本の大量生産技術と品質管理が、我々よりかなり優れていた、ということが冷酷で厳しい真実だった」と、彼は振り返る。

80年代は日本車の前世でもあった。(photo by Gettyimages)

80年代は日本車の全盛期だった。(photo by Gettyimages)


ところが、80年代後半になると、韓国のカーメーカーが、英国のみならず各国で、それまでに信頼を獲得していた日本メーカーに厳しい影響を与えるという、一見、不可能なプロセスを開始した。日本が以前、イギリス人をしてイギリスに本社を置く不振の自動車メーカーに背を向けさせたように、日本製品から韓国製品に買い手を転向させた。

すでに日本車の信頼度が確立されていたため、韓国メーカーの車への扉も開いていたと言えるだろう。特にホンダのHのロゴとヒュンダイ(当時)のロゴの区別がつかない一般人も多く、日本車と同等として受け入れられやすかった面もある。

アメリカ市場でも同じ影響があった。ヒョンデの対米輸出は1990年に累計100万台を超えた。日本人ラリー・ドライバーのモンスター田島氏が常勝していたパイクスピーク・ヒルクライム・ラリーで、当時はヒュンダイと称していたScoupeTurboが優勝し、1993年には同エラントラがオーストラリアで「1993年のベストカー」に選ばれた。
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