アート

2023.08.17 09:00

英老舗リバティが繋ぐアートヒストリーの「前衛」とは

鈴木 奈央
展覧会「FuturLiberty」のパート1は、未来派の展示も多い900美術館の一角で行われている特別展です。入口でウィリアム・モリスの作品をみたあと、未来派の絵画をいくつかの観点から鑑賞することになります。「光」「動き」など、それぞれの視点で作品が分類されています。
光を強調している未来派の絵画

光を強調している未来派の絵画(c)Liberty


そして、イタリアにおけるリバティ様式の普及、あるいは未来派がファシズムに近寄りながら自己崩壊していく流れも示されています。この未来派とパブロ・ピカソに代表されるキュビズムが、英国で1910年にはじまったヴォーティシズム(別名、渦巻派)という運動に影響を与えています。

この繋がりがパート2でわかるのですが、リバティの歴史で鍵となるのが、未来派のジャコモ・バッラです。実は、コレクションと展覧会名の「FuturLiberty」でfutureの最後のeが抜けているのは、バッラが”FuturBalla“というペンネームを使っていたことへのオマージュです。

パート1でもバッラの絵画はたくさん目にしますが、パート2では、彼のデザイナーとしての側面が紹介されます。1920年代の「ジャズエイジ」の具現者としてのバッラの作品を目のあたりにします。カラフルで軽みがあり、親近感のもてる騒がしさを感じます。彼はまた、ファッションのデザインも手掛けていました。デザイナーとしてのバッラの作品(左)、バッラのファッションデザイン(右、写真=安西洋之)

19世紀後半の英国人によるデザイン(左(c)Liberty)、バッラのファッションデザイン(右、写真=安西洋之)


さて、リバティが150周年を見据え、今後の姿、つまり「リバティ柄と言えば……」を維持しながら次の姿を示すにあたり、アドバイザーとして白羽の矢を立てた人がいます。イタリア人のフェデリコ・フォルケです。彼はフランスの革命時、パリからナポリに逃げたファミリーの子孫で、幼少の頃から知的エリートのなかでもまれて育ちました。

1953年、22歳のとき、パリでクリストバル・バレンシアガにデザインの力を認められ、オートクチュールでのキャリアを皮切りに、インテリアデザイナー、造園デザイナー、アートコレクターとして活躍。当時から現在にわたって、ファッションやデザインの歴史をよく知る人物です。 

2021年、リバティのデザインチームがフォルケのトスカーナの別荘を訪ねると、「世界が変わりつつあるので、私たちは新しい声を届けなければならない」と89歳(当時)のフォルケは語り、「未来派を深掘りすることで何か見えてくるはず」と提案しました。
フォルケとのワークショップ

リバティチームとフォルケとのワークショップの様子


デザインチームはロンドンに戻ると、リバティのアーカイブを探索。そこで発掘したのが、リバティの名高い60年代のデザイン・ディレクター、バーナード・ネヴィルによるテキスタイルでした。

ネヴィルは1965年から1971年の間、リバティに在籍します。英国のセントラル・セント・マーチンズやロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)の教授として多くの人材を世に出し、ファッションをひとつの学問分野に押し上げた1人と見なされていますが、リバティの一時代を作った人物でもあります。

アートコレクターでもあった彼は、未来派だけでなく、キュビズム、1910-30年代に広まった幾何学的表現やカラフルな表現が多くみられるアールデコ、ヴォーティシズムといったところから刺激を受けていました。いわば、リバティのデザインの中興の祖です。
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文=安西洋之(前半)、中野香織(後半)

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