中国本土のインフレが、国内総生産(GDP)よりも速く退潮している現状に「この映画は、別のアジア主要国で以前に見たものだ」という感覚は強まるばかりだ。20年以上にわたってデフレに苦しんできた日本は、いまだに反面教師としてあり続けている。
日本はいまだにその影響を引きずっている。確かに、エネルギー・食料価格の世界的高騰を受け、日本の物価も上昇している。すべてウラジーミル・プーチンのせいだ。けれども、7月28日の日銀の判断は、相変わらず1999~2001年の時期に立ち返って安心したがる日本について、改めて世界に知らしめるものだった。
日銀は1999年、主要通貨当局として初めて、政策金利をゼロに引き下げた。それは、1990年代の不良債権危機の影響に対する極端な反応であり、政府は勇気と先見性をもって対応することができなかったと言える。
金融危機が深刻化するなか、日銀は2000年と2001年、経済学における除細動器とも呼べる手段で、金融システムにショックを与えた。当時の日銀総裁だった速水優が先鞭をつけた量的緩和は、23年後の今も、日本経済の成長の足枷となっている。
現日銀総裁である植田和男は7月28日、患者の生命維持装置の取り外しに着手する絶好のチャンスを手にしていたが、同氏はこうした決断を下さなかった。そして同氏のためらいは、答えよりも多くの疑問を生み出した。
金融メディアは日銀に同調するかたちで、10年国債の利回りを0.5%に引き上げたことを、まるで画期的な偉業であるかのように報じた。ニュースの見出しには、日銀が「市場を揺るがす」ほどの「カンフル剤」を打ち「利回りが急上昇」といった言葉が踊った。一方、日銀の小さな一歩のあと、円安がさらに進行した事実は無視された。