実際、食べログで「新大久保」「ネパール料理」で検索すると、38店(2023年8月現在)がヒットした。その地域に住む外国人が増えれば、その口に合わせた料理がそこでは供されるようになる。これはガチ中華が都内各地に誕生した理由と同じである。
それにしても、1990年代には韓国人やタイ人に加え、中国人の就学生が大久保界隈に結構多くいたことを考えると、時代の変化を感じる。
「日本の中のインド亜大陸食紀行」「日本のインド・ネパール料理店」(いずれも阿佐ヶ谷書院)などの著書のある小林さんは、日本のエスニックグルメのディープな探訪者の先達だ。
小林さんはその著書のなかで、なぜ「ズブズブとそのぬかるみのような(インド・ネパール料理の)世界に首までつかって」しまったかについて告白している。
1991年のバックパックのアジア旅行から「帰国後もインドとその周辺国の幻影がフラッシュバック」して、「代わりに足が向くようになったのが、日本国内においてインド亜大陸出身者と接触し、インド的成分の補給ができる場所、つまり料理店、食材店、イベント」(「日本の中のインド亜大陸食紀行」より)だったという。
これを読んで、筆者は他人ごととは思えず、苦笑しつつ大いに共感したものだ。筆者と中国との縁の始まりは1980年代半ばの学生時代のバックパックの旅だったからである。
小林さんほど「ズブズブ」になった気はしていなかったが、まだ池袋がプレ「ガチ中華」の時代だった2000年代前半、筆者は当時「移民食堂」と呼んでいた、まだ数少なかった中国人経営の店を時おり訪ねていた。
学生時代の旅から帰国後、小林さんのように中国大陸出身者と接触することになった。なぜなら、1980年代後半、第1次の中国人就学生の来日ラッシュが始まったからだ。
中国の旧正月である春節前夜、ケーブルテレビで中国版紅白歌合戦を彼らと一緒に観たこともある。当時、東京ではこの日が中国の人にとって特別であると知る人は少なかった。訪日観光客もまだ来ていない時代で、彼らと一緒に酒を酌み交わしているとき、なぜか癒しを感じたことを思い出す。
大久保にある「ガチネパ」の店をいくつか訪ねた印象は、1990年代の池袋での中国人就学生たちを取り巻く環境に似た雰囲気が感じられたことだ。それは小林さんが言う「ネパール人がネパール人を相手にして商売が成り立つ環境」が生まれているということだ。違いがあるとすれば、店によっては女性誌などにも取り上げられ、日本人客の姿が比較的多く見られたことだろうか。
ただし、大久保界隈はネパール系だけでなく、多数派の韓国系をはじめ、ベトナム系や中国系、また他のエスニック系の店もあり、多国籍化していることはよく知られているとおりである。