彼がこの地を訪ねるのは2回目だが、村人たちから「もうこうした儀式を執り行うのは最後だろう」という思いを告げられ、記録してほしいと伝えられたそうだ。
作品では3日間かけて執り行われたサマンの儀式の一部始終を撮影している。さまざまな祈祷やダンス、演奏や歌、供物となる豚の生贄のシーンなど、この作品でしか観ることのできないドラマティックな宗教世界が繰り広げられる。
さて、この作品の成立に大きく寄与しているのが、東北各地に住む民間の満洲学者たちである。彼らは口々に満洲族とその文化消滅の危機を訴える。その1人である施立学さんは、清朝時代に書かれた25万部の満洲語の公文書の翻訳は民族の課題であり、このままではその実現は困難であると語っている。
満洲学者の人たちは、金さんに東北各地の満洲族の住む村やサマンたちの所在を教え、現地でコーディネイトをしてくれたという。
金さんは「文献などで書かれたものの多くは、改革開放後の自由化で満洲族たちが自らのアイデンティティを取り戻し始めた1980年代から1990年代のものが多く、今日の状況は当時の恵まれた時代とは違うため、実際に現地に行ってみなければわからないことばかりだった」と話す。そのため、2010年代以降に起きた満洲族をはじめ中国の少数民族を取り巻く社会の変異を感じざるを得なかったという。
サマン文化の最後の姿の映像
それにしても、なぜ「天空のサマン」のような作品が撮られることになったのか。金さんは、中高生の時代はロック少年で、文化祭ではステージに立ってボーカルを担当していたという。文化大革命が終わってわずか数年という時期に中国から来日したばかりの少年が、すぐに日本人生徒に馴染んでバンド活動をしていたことは驚きだが、両親ともに画家という芸術一家に生まれた金さんにとっては自然のことだったのだろう。学生の頃の彼は自分の出自や民族について、あまり考えたりしなかったらしい。
転機は2007年だった。その年の夏、彼は出身地の中国遼寧省撫順市を訪れた。数年前から自分が満洲族の血を引く人間であることを意識するようになり、故郷を訪ねて満洲文化の痕跡を探したが、何も見つからなくてショックを受けたという。「気づくのが遅すぎだ」と彼は話す。
その翌年から毎年のように満洲各地を訪ねた。前述した満洲学者らの情報提供や支援があり、そこに満洲語の話者やサマンがいると聞くと、現地をくまなく訪ねることにした。彼によれば「自分の民族的アイデンティティに関わる使命という面もあるが、目に見えない先祖の力に守られて、果たさなければならない天命のようなものがあった」と言う。