「ここ、いくらだったと思いますか」
車で林道に入る、林学博士の西野文貴はうれしそうに尋ねた。場所は大分県中心部から1時間半もかかる辺境の森林。先月、買い取ったその放棄林の広さは1.5ha、東京ドーム約3分の1個分だ。
「この広さで、なんと50万円!安くないですか」
人の手の入っていない、ただ荒れた森林。安値でも手に入れたいと思わなかった。しかし、森の設計士を名乗る西野には、輝いて見えるそうだ。
「ここから里山ZERO BASEを始めるんです。ようこそ、僕たちのモデルフォレストへ!」
里山ZERO BASEとは、こうした全国の放置されたスギ・ヒノキ林を買い取り、活用する西野発案のプロジェクト。家業の後継者が新規事業アイデアを競う「第3回アトツギ甲子園」で最優秀賞を獲得し、注目を集めている。全国の林業関係者やゼネコン、石油関係企業などから問い合せが絶えない。社員わずか11人、大分の苗木生産会社の後継ぎの構想は、なぜ人々を惹きつけるのか。
父と子、二人の人生を変えた師
西野の家業は、森づくりである。父は植樹用の「ポット苗」を生産する会社・グリーンエルムを1989年に創業した。次男の西野文貴は、林学修士号の取得後から家業にかかわり、23年10月から2代目を継ぐ。「うちは苗木を代々つくってきた一族ではありません。父が突然仕事を辞め、会社を起こして。そこでつくり始めたのが苗木でした」
大分県内の企業で環境緑化を担当する一介のサラリーマンであった父は、なぜ起業したのか。なぜ苗木だったのか。
「宮脇先生に感化されたからなんです。当時、宮脇先生のもとには、父のような弟子が全国から集まってきていて。すごい熱気だったときいています」
日本の森づくりの父、宮脇昭。世界で4000万本の木を植えた「行動する植物学者」だ。生まれは1928年。1928年に、単身ドイツに留学し、当時最先端の学問「植物社会学」を学んだ。帰国後は、北海道から沖縄まで歩きまわり、森林から海岸に至るまで、土地の植生を調べ尽くした。まさに植物版の伊能忠敬。10年がかりで、116名の植物学者を巻き込み、全10巻からなる大著「日本植生誌」にまとめ上げた。
70年代になり、社会は宮脇を求めた。公害など環境問題が急速に表面化したのだ。71年の環境庁の新設からも、時代の変化がみてとれる。次々依頼が舞い込んできた宮脇は、企業や行政との森づくりに全国、世界各地を飛び回った。
日本の大企業の中で、いち早く宮脇との森づくりをはじめたのが、新日本製鐵(現・日本製鉄)である。当時、公害の元凶のように扱われていた製鉄所。力を貸すか悩んだ宮脇は「本気でやるなら、協力する」と、2つの条件を出した。
まずは、当時全国に10ヶ所あった全ての製鉄所で森をつくること。もう一つは、日本最大の製鉄会社に、廃業の覚悟を迫るものだった。
「(製鉄所の側につくった森が)ある日突然枯れるようなことがあったなら、それは人間にも深刻な悪影響を及ぼしているということです。その時は溶鉱炉の火を消すことを決心して欲しい」
そう宮脇は、依頼にきた新日本製鐵の担当者に言い放ったのだ。社内からは「そこまでして、木を植える必要があるのか」との反対の声もあがった。最終的に、新日本製鐵は宮脇の条件を受け入れ、全国での森づくりをはじめた。共につくった森は現在、約830ha、東京ドーム約180個分にも及ぶまでに、育っているという。