高田馬場の「餃子荘ムロ」では、現在の店主の祖父がジャズメンであったことも、チャプスイとの関係が想像される。「中国料理の世界史~美食のナショナリズムを超えて」では、20世紀を代表するアメリカのトランペット奏者でジャズメンのルイ・アームストロングが「コーネット・チャプスイ」(1926年)という曲をリリースしていたことを挙げ、チャプスイが当時のアメリカの大衆文化で広く題材とされていたことがわかる。
蒲田の「寶華園」については、戦後間もない1950年代の東京でアメリカの食事を出すレストランでチャプスイが提供されていたことが、同書では紹介されている。さらに、チャプスイを人気メニューとして広めたのは、昭和初期の1926年に創業された、今日では老舗の中華料理チェーンとして知られる銀座アスターで、当時は「アメリカン・チャプスイ・ハウス・レストラン」と看板を掲げていたとされている。
つまり、日本ではかつてチャプスイは昭和モダニズムとしての「米国式中華料理」として持ち込まれ、箸ではなく、ナイフとフォークで食べるスタイルで提供されていたのである。このことから、なぜ明治5年創業で日本の西洋料理の草分けだった上野の「精養軒」で、いまもなおチャプスイが提供されているのかも理解できるだろう。
このチャプスイの歴史のように、中国由来の料理は、時代と環境の変転のなかで、変幻自在に姿を変え、現地化されながら、世界各地に広まっていったのである。また、これが現在も進行中であることは、日本のいまの「ガチ中華」の隆盛をみれば明らかである。