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リーダーシップ

2023.07.09 17:00

第一三共の初代社長、高峰譲吉さん|私が尊敬するカリスマ経営者

世界最大規模の藻類生産設備をマレーシアに建設中で、バイオ分野の幅広い事業を手掛けるちとせグループ。そのCEOの藤田朋宏が尊敬する経営者は、アドレナリンなどの発見で知られる、科学者で実業家の高峰譲吉だ。


私が尊敬するのは……
第一三共の初代社長高峰譲吉さんです。

100年以上前から現在まで使われている医薬品は世界で3つだけ。高峰譲吉はそのうちの2つを発見しました。彼は化学や農業の分野でもさまざまな日本初・世界初の事業を起こし、どれも大成功し莫大な富を築いています。さらに理化学研究所の創始者でもあります。既存の枠組みにとらわれず社会のために何をすべきかという情熱とたゆまぬ努力で、多くの実績を残しました。よく似た職業・立場の私ももっとやれるはずだと励まされます。
藤田朋宏◎ちとせグループ 創業者・CEO。1973年生まれ。東京大学大学院農学生命科学研究科修了後、外資系コンサル企業を経て、2008年ちとせ研究所代表取締役に就任。2011年にシンガポールに統括会社を設立し、ちとせグループとして再編。東南アジア発のユニコーン企業に育てた。内閣官房バイオ戦略有識者や京都大学産官学連携本部特任教授などを兼務し、世界のバイオエコノミーの推進に貢献する。


十数年前のことだ。“日本の資本主義の父”とたたえられる渋沢栄一を曽祖父にもつ渋沢雅英氏から、筆者はこんな話を聞いた。雅英氏は大学進学にあたり農学部への進学を希望していた。父敬三に相談したところ、父は息子にこう答えたという。

「おじい様が支援した方に高峰(譲吉)さんという人がいた。肥料の研究から始めて様々な研究にとどまらず、実業までやられた立派な方だった。お前さんは、高峰さんを目標に農学をやったらいいじゃないか」

雅英氏は敬愛する父のアドバイスを励みとし東京大学農学部へ進学する。卒業後、実業の道に進み、社会啓蒙活動に身を捧げた雅英氏が農業の研究に従事することはなかった。けれども、渋沢家の祖が支援し、3代目がその名を敬愛を込めて語った高峰譲吉の名を、その功績とともに生涯忘れることはなかったという。

高峰は1854年に富山県高岡市に生まれ、米ニューヨーク市で没したのは1922年。没後100年がたった人物だが、いまも世界の医学、化学、薬学の世界では高峰が発見、また開発したものが進行形として使われ続け、産業界でも高峰が起こした会社がいまもいくつも存続している。

高峰は近代化、西洋化をひた走った明治時代の申し子のようだった。12歳から英語を学んだ高峰はその領域を化学、医学へと広げる。26歳の時、3年間、英国に留学。そして、1884年、米ニューオーリンズで開催された「万国工業博覧会」に派遣される。現地で農業を飛躍的に発展させた「化学肥料」と出合う。日本の困窮する農家を助けるには「化学肥料」と思い定め、高峰はその研究に没頭する。

この高峰の化学肥料の研究、開発、そして工業化の将来性を評価し、資金的な支援をしたのが渋沢栄一だった。その意味では、高峰は開発型のベンチャー起業家であり、渋沢栄一はエンジェル投資家だった。渋沢の支援を受け「東京人造肥料会社」は1887年に設立される。大株主は渋沢栄一だった。

ここから高峰の大車輪の活躍と波乱が混在する唯一無二の人生が始まる。「東京人造肥料会社」はその秀でた理念とは裏腹に赤字が続く。渋沢の支援が頼みの綱だった。

その矢先、米国から高峰に渡米の要請が来る。高峰が米国で特許出願していた「高峰式元麹改良法」を使用して「ウイスキー」製造に乗り出したいという酒造会社からの要請だった。
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文=児玉 博 イラストレーション=リューク・ウォラー

この記事は 「Forbes JAPAN 2023年6月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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