消化酵素剤の開発で億万長者に
禍福は糾あざなえる縄のごとし─。ウイスキーの世界から身を引いた高峰だったが、研究を重ねた“麹”からデンプンを分解する酵素を発見する。自らの名前から「タカジアスターゼ」と命名した胃腸の働きを助ける消化酵素剤を開発する。
この消化酵素剤はまたたく間に世界中に広がり、高峰は巨万の富を得る。日本でその販売を手がける会社「三共商店」が開店する。後の「第一三共」である。ちなみに高峰の母幸子の実家はつくり酒屋であり、父精一は漢方医だった。両親から受け継いだDNAは間違いなく譲吉の体内で息づいたといえる。
また、いまでも外科手術などの昇圧剤、止血剤として使われる「アドレナリン」を世界に先駆けて発見したのも高峰だった。手術現場以外でも「アドレナリンが出た」などと普通に現代社会でも使われる「アドレナリン」。その発見者も高峰だった。
現在、高峰が生まれた街、高岡市はアルミの街として栄えている。富山を代表する河川「黒部川」の水力を使い日本初となる「アルミニウム」の製造を考えた高峰と三共製薬専務の塩原又策らは、「東洋アルミナム」を1919年に設立。資材運搬のための鉄道会社「黒部鉄道」、電源確保のための水力発電会社「黒部水力」を次々と立ち上げた。
しかし、その実現を見ることなく高峰は1922年、ニューヨーク市で亡くなる。米国にも多大な貢献をした高峰だったが、ついぞ米国市民権は得ることはできなかった。
かつて高峰が日米交流の場として使っていた「松楓殿」。ニューヨーク市郊外にあった松楓殿の一部は高岡市に移築、再現されている。壁、天井に描かれている絢爛たる松や楓は日本そのものだった。
米ワシントンD.C.のポトマック川のある美しい桜並木は、1912年に東京市から米国に寄贈されたものだ。日米友好の象徴であり、両国のきずなでもあるこの桜を寄贈するにあたり、最も尽力したのも高峰だった。高峰が残した桜は今年も米国の首都を美しく彩った。
高峰譲吉 年譜
1854 富山県に生まれる。1869 大阪医学校で学ぶ。
1873 現東京大学工学部に入学、79年に首席で卒業。
1880 イギリスに留学。
1883 帰国後、農商務省入省。
1884 米ニューオーリンズ万博
1887 東京人造肥料会社(現日産化学)を設立。米国人の妻と結婚。
1890 渡米。
1894 タカジアスターゼを発明し、特許を得る。
1899 工学博士を取得。
1900 アドレナリンの抽出結晶化に成功。
1906 帰国。薬学博士を取得。
1913 当時の三共初代社長に就任。
1917 理化学研究所理事に就任。
1922 67歳で逝去。
児玉 博◎1959年生まれ。大学卒業後、フリーランスとして取材、執筆活動を行う。2016年、『堤清二「最後の肉声」』で第47回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。単行本化した『堤清二 罪と業 最後の「告白」』の ほか、『起業家の勇気 USEN宇野康秀とベンチャーの興亡』『堕ちたバンカー 國重惇史の告白』など著書多数。