「分断を避ける」国民性
多くのテーマの全てを紹介するわけにはいかないので重要なポイントを抜き出したい。それは「分断」だ。日本とフランスを比較する中で、著者は何度かオーウェルの名を登場させる。『1984年』を代表作とし、全体主義国家や管理社会への警鐘を鳴らし続けたジョージ・オーウェルだ。
著者は日本の習慣から繰り返しオーウェル的な世界を嗅ぎとっている。具体的には地域社会の相互監視的な視線や画一的な報道を続ける主要メディア、人々に思考する猶予を与えないほど連続して訪れる社会的、商業的イベント(ハロウィン、クリスマス、バレンタインデー……)などに対してだ。
何かをオーウェル的だと例える文章には強い批判が含まれている場合が多い。しかし著者の場合はそうではなく、「このようなオーウェルはそう悪いものではなく、それなりのやり方で、日本国民がストレスの元となる分断に陥るのを避ける助けになっているのである」と言及している。「分断」という言葉が世界的な問題となっている中で、これは重要な指摘だろう。
分断を避ける、という国民性は社会問題に対する姿勢にも表れているようだ。
社会問題に対して、フランス人と日本人のアプローチは正反対である。フランス人は変えることを望むのに対し、日本人は治療を望む。私たちフランス人は古い世界を壊して新しい世界をつくろうとする。(中略)社会の悪を公に告発し、見せしめに処罰して、同類の仲間全員を悔い改めさせようとする。害悪は完全に排除するか、または再教育して、社会を解放しようと闘うのである。
いっぽうの日本人は、機械を直す、間違いを正す、病気を治療する、悪い習慣を取り除くのと同様の動詞を使う。「生活、社会、世界」を立て直すときは、それら全体を一言にして「世」を立て直すという言い方をする。悪というよりは、機能不全に陥った共同体全体を立て直すという意味で、壊すのではなく、再出発するために活力を取り戻すという意味だ。
変えることはスピーディーだが多くの綻びを生んでしまう可能性があり、一方で治療は時間がかかる代わりに入念におこなうことができる。
フランス人の黄色いベスト運動や直近の年金改革への抗議デモ、度重なるストライキは、私たち日本人にはいささか過激で、暴力的にすら映る。逆に、フランス人から見た日本人の社会運動はあまりにも遅々として進展せず、生ぬるいとすら見えているのだろう。
「理不尽さ」こそが武器?
しかし、もしかしたら社会問題に対する日本人の「遅さ」は副作用を減らす効果があるのかもしれない。著者は「問題に取り組むのは、長い熟成期間を経て、これらのテーマが何らかの事件をきっかけに、一般の人々の問題として認められるようになったときだ」としたうえで、「たしかにフランスよりは目立つやり方ではないが、しかし分断はきわめて少ない」と評価している。これは、普段「遅さ」に歯痒い思いをしている日本人にはない発想ではないだろうか。本書が刊行されたのは2020年。相変わらず日本は長い不況から抜け出せておらず、その他にも多くの問題が山積している。分断は少ないらしいが、必ずしもゼロではない。これらの解決がゆっくりとしたものになることは何となく見当がついてしまう。しかし、だからといって悲観しすぎる必要はないかもしれない。本書を、そして他国の例を見る限り、「遅さ」「理不尽さ」は十分効果的な武器になり得るからだ。
最後にもう一つ、著者が「理不尽な」日本人を評した言葉を引用しておく。
社会を変える能力と欲望があったのだとしても、急がず、目立たず、しかし、彼らなりに現在の状況に合わせて変化するのだろう。
そしてこれは幸せとは言えないにしても、それに近いと言えるのではないだろうか?
松尾優人◎2012年より金融企業勤務。現在はライターとして、書評などを中心に執筆している。