孫子と地政学

川村雄介の飛耳長目

秋深まる北京の人民大会堂。盛大なセレモニーを終え、ゆっくりと大階段を下りていくふたり連れの姿があった。女性は淡い色の着物姿で男性はダークスーツである。安倍元総理夫妻であった。

この日、会堂では日中第三国市場協力の調印式が賑々しく執り行われた。当時、世界中が期待と不安をない交ぜにした視線を送る中国の政策が「一帯一路」であった。日本でも賛否両論が渦巻いていた。経済にはプラスだが、中国の拡大主義には警戒せざるをえない。こうしたなか、安倍政権は両国が第三国で協力し合うという立て付けで、一帯一路を黙認したものと受け取られた。中国からは親米で対中国強硬派と見なされていた安倍氏が、経済文化では日中間協力を進めていく、と宣言したのだ。地球儀俯瞰外交の真骨頂だった。

いまはやりの言葉が「地政学」である。書籍や論考の表題には、これでもかというほど地政学の三文字が躍っている。独立した学問というよりも、地勢を重視しつつ歴史、政治外交、経済、文化・宗教・イデオロギー、民族問題、軍事等々をゴブランのように織り込んだ、世界情勢の分析手法といえるだろう。多くの場合、19世紀末辺りからの、欧米の考究を指しており、H・J・マッキンダーに代表される英米系とK・ハウスホーファーらの大陸系があるとされる。

だが、これらのはるか昔から中国には地政学がある。天下が麻のように乱れた春秋時代の孫子だ。孫子は国家の大事を軍事ととらえ、5つの基本を踏まえろと教えている。道(正しい内政)、天(環境条件と機会)、地(地勢)、将(指導者の能力)、法(制度と運用)である。これらを真に身につけ応用できる国だけが勝つという。孫子は多くの言語に翻訳されてきたので、近代の地政学にもかなりの影響を与えていると思う。

地政学上、重要な視座は自国が大国か小国かを認識することである。特に大国に翻弄される小国は、地政学的な知恵と対応が死命を制する。Geopolitik(地政学)という言葉の生みの親であるR・チェーレンが、19世紀後半以降、小国であることを自覚せざるをえなくなったスウェーデン出身であったことも示唆的だ。当時、この国はロシアとドイツの勢力と思惑に挟まれながら、ナショナリズムが勃興していた。
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文 = 川村雄介

この記事は 「Forbes JAPAN 2023年7月号」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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