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2023.05.23 09:00

大手商社から独立し日本食ビジネスへ コロナ禍のメキシコで見出した活路

Encounter Japan代表の西側赳史(にしがわたけし)

世界各国での渡航制限が徐々に緩和され、日本でも出張や観光で海外を訪問する人たちが増えてきた。

観光庁は5月10日、日本旅行業協会(JATA)とともに「いまこそ海外!宣言」を発表。コロナ禍で低迷していた日本からの旅行者数を、約2000万人という2019年の水準へ戻そうとしている。

一方、海外から日本への旅行者も急増している。だが、肝心の国内のホテルや旅館は人員不足で、コロナ禍の前のような体制がとれず、苦慮する事例も出始めている。
 
海外でも同じような状況にある。旅行客が回復したとしても、受け入れる側の経験やノウハウの蓄積が途絶えてしまうと、コロナ禍前と同じ水準を維持するのは難しい。

コロナ禍でもメキシコに残る決断

ところが、今回のパンデミックのなかにありながら、メキシコやコロンビアなど中南米の国で、日本の食や文化を紹介するビジネスを拡大させる足がかりを築いた起業家がいた。
 
神戸出身の西側赳史(34歳)は「海外での活動を続けたことが正解だった」と振り返る。
 
彼は、大学生のときに日本で外国人の子どもが通うサッカークラブでコーチをしたことをきっかけに、自分の英語が伝わらないことを痛感。そこで、2カ月の間、米国に滞在することにした。
 
留学ではなく、就労できるビザを取得して西海岸のヨセミテ国立公園にあるピザ屋で働いた。そのときの職場の仲間は、自分が考えていたようなアメリカ人でなく、中南米出身の人たちが大半。彼らと話をすればするほど、自分の性格は日本人よりも彼らに近いと感じたという。
 
それが、西側が中南米に興味を持ったきっかけだった。
 
米国滞在から帰国し、関西学院大学を卒業して総合商社の双日に就職。希望がかなって、中南米での自動車関連の業務に従事したが、思いあって26歳のときに退社する。
 
東京の代官山でキッチンカーを使ったカレー店を始めようとしたが、頼りにしていた幼馴染の料理人が開店を目の前になぜか失踪。借金だけが残る悲劇を経験した。
 
そのあとは渋谷で小さなバーをやりながら、羽田空港で飲食店も経営した。だが、思うように売上は伸びず、「起業してから5年以上、辛酸をなめ続けた」という。
 
2016年には、以前から興味を抱いていた中南米にも事業を拡大。メキシコ中部にあるグアナファトという街で、日本からの観光客や出張者向けに日本料理店と宿泊施設を開業した。中南米こそが自分の活躍できる場だと信じていたからだ。2020年2月には、日本での飲食店を全て閉めて、メキシコでの事業に専念する。
メキシコのカンクンで開催された日本食イベント

メキシコのカンクンで開催された日本食イベント


しかし、そこを襲ったのが、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大だった。国境が封鎖されるなか、もしかするとしばらくは日本に帰れなくなるかもと考えたが、彼はあえてメキシコに残る決断をした。
 
コロナ禍はメキシコでも猛威を振るう。飲食店は強制的に閉鎖となるが、日本のような給付金はない。そんななか彼は従業員を集めてこう話したという。

「明日から営業ができなくなった。だが、あなたたちを解雇することはないので安心してほしい」
 
当時、西側の飲食店で働いていたのは約20人。彼らの生活を守るために、店の壁のペンキ塗りなどの仕事もしてもらったりしたが、かたやデリバリーも始めた。すでに着手していたデザイン制作や広告事業も本格化させた。
 
最後は、従業員がデザインしたTシャツを販売する事業についてクラウドファンディングも展開したが、手持ちの現金はあっという間に底をついた。
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文=多名部 重則 編集=松崎 美和子

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