社会を底上げし、永続する会社をつくる実験とは。
編集部註:本記事は「ForbesLife 2013年4月24日号」初出のものを再編集しています。
ブルネロ・クチネリは、ミラノやローマ、パリから来たわけでもなければ、飛躍の足がかりになるような有名なファッションレーベルでのキャリアも一切もたずにビジネスをスタートした。
2010年の段階でも誰もが知る存在ではなかったが、業界関係者の注目は集めていた。東京、パリ、ロンドン、ニューヨークにある彼のブティックでは2500ドルのスポーツコートが飛ぶように売れていた。彼が手を触れたすべて、とりわけカシミヤ製品のすべてが、シックと見なされたのだ。
クチネリは、高級ファッションの世界の華やかな脚光とは無縁の環境で育った。家は貧しく、父親は収穫の50%を小作料として地主に搾り取られる小作人だったが、彼は当時を「素晴らしい暮らしだった」と振り返る。クチネリが15歳のとき、父親はセメント工場に就職。一家は都会に移り住んだ。安い賃金できつい労働に従事し、上司から屈辱的な扱いを受ける父親を見て彼は人間の「尊厳」について考えるようになったという。
「自分にこう言い聞かせていました。“人生で何をするかはわからないけれど、何であれ、人間の尊厳のためになることをやるんだ”と」(クチネリ)
大学を中退したクチネリは、20代の前半をルソーやカント、マルクス・アウレリウスの思想を頭に詰め込み、バーに入り浸ってさまざまなことを議論することに費やした。そして25歳のとき、ひらめきを得た。ベネトンが鮮やかな色合いのウールのセーターでもうけているのを見て、その上を行けばいいと考えたのだ。自分も独自の鮮やかな色合いのセーターを、カシミヤでつくればいいと。
ただし、文無しだったクチネリは、自分流のやり方で周囲の支援を得る必要があった。彼は1ドルももたないまま、友人に白のカシミヤ糸を20kg譲ってもらえないかと頼みに行った。その友人は「お金が入ったときに代金を払ってくれればいいよ」と糸を譲ってくれたという。
「素晴らしいですよね。これが典型的なイタリアの村の文化なのです。互いを信頼し合っている。もしいつかお金を返さなかったりすれば、村中に知れわたることになります」(クチネリ)
あの人にひとつ、この人にひとつと方々で頼んだ結果、クチネリは6枚のスリムフィットのカシミアセーターを編み上げ、染めた。そして、売り込みに訪れた北イタリアのボルツァーノでカシミアセーター53枚の注文を得た。