「誰もやっていないことをやる」。そこにビジネスチャンスがありそうだと誰もが想像する。しかし、「やっていないこと」を見つけて実業に昇華させ、しかもそれが1つや2つでなく、さらに、子どもたちにその視点が受け継がれてファミリービジネスが拡大する──。そんなケースはまれではないか。
地中海に面した北アフリカの国・チュニジア共和国出身のメッセルマニ・アヌワは、その体現者だ。1977年に初来日して46年。東京・品川に本社を置く地中海沿岸諸国のワインや食材を輸入するエム・アンド・ピーの社長であり、バイオ医薬品や美術品など特殊輸送を手がけるハブネットの会長に、その成功談を聞こうと質問を向けた。屈託のない笑顔から繰り出される不思議な縁の物語が、そこにあった。
68年、高校卒業を控えた18歳。生まれ育ったチュニジア第2の都市スファックスの油絵コンクールで最優秀賞を受賞し、ライオンズクラブの招待で2週間パリに滞在した。
「ベルサイユ宮殿とかルーブル美術館とか、毎日違うご婦人が案内してくれて、フランス料理も食べ尽くすくらいの歓待だった。で、その時に、1日だけ休みをくださいとお願いしたんです」。パリ国立高等美術学校に、入学に必要な書類をもらいに行ったのだ。だが結局、パリでの生活費が高くて断念、チュニジアの美術大学に進むことにした。
迎えた入学初日、キャンパスを行き交う学生に違和感を覚えた。「ダラダラしていてね。私は勉強したいけれどみんな遊んでいる。ここじゃない」。その足で旅行会社に向かい、マルセイユ行きの乗船チケットを購入、パリの美術大学に転入した。思い立ったら即行動。この性格が、メッセルマニのその後の人生をかたち作っていく。
卒業し、作品の評価を聞こうとパリ市内の画廊を回ったときだ。「私が扱うアーティストはもう死んでいるか、60歳以上。この絵を50年後、あなたの息子がもってきたら買いますよ」。そう言われ、オーナーに追い返された。「50年後って言われてもね。それまで貧乏な生活をするの、それはダメでしょう」。世界の美術館を巡るヒッチハイクの旅に出て1年後、チュニジアに戻り、高校の美術講師の職に就いた。
だが、生活は厳しかった。画材も満足に買えない薄給に嫌気が差し、知り合いの教授に、大学でどういう教員が求められているかを尋ねた。返ってきたのは都市計画。ならば勉強して、マスター(修士号)を取ればもっといい生活ができるはず。1年の講師生活を終えて、パリのソルボンヌ大学で学ぶことにした。