AI時代の教育について記した『冒険の書』(日経BP)を刊行した孫に問題意識を聞いた。
現在、投資家として世界各国にいるイノベーターをサポートしつつ、自らも連続起業家として新しい社会をつくる活動をしています。世界には、本当に素晴らしい起業家がたくさんいます。その起業家たちはうまくいくかなんてどうでもいい。やりたいからやるんだ、と伸び伸び働いています。一方、愚痴ばっかり言って、働いている人たちもたくさんいる。なぜこうも違うのか。
それは「教育」に原因があるのではないか、と考えるようになりました。学校は、イノベーションの対極にあり、原因がわかり、変えられれば、社会の根本が変わるのではないか。そう思い仲間と探究をはじめ、3年半の執筆を経て、先日『冒険の書』という本にしました。
「なぜ教育はなされるのか」「なぜ学校は存在するのか」というのは、ずっと抱いていた問いでした。先人たちの導き出した教育の目的は大きくふたつ。「子どもたちが自由に生きる力を身につけるため」と「民主的な市民社会の一員として育てるため」です。
子どもに身につけさせようとする「生きる力」は、結局「資本主義のうえでうまく立ちふるまうことのできる能力」でしかありません。社会の産業化、分業化の進行で、社会に「メリトクラシー(能力実績主義)」が浸透。能力を高めれば、幸せになれるという「能力信仰」が生まれました。能力はフィクションでしかないのに、学校は能力信仰を揺るぎないものにする役割を果たしてしまっています。
僕は人工知能のことを、そんな「メリトクラシーの最終兵器」と呼んでいます。
ChatGPTをはじめ、人工知能の発達のすざまじさ。特にここ数カ月の動きは目まぐるしく、最新技術に触れる機会の多い僕でさえも、驚いています。
生きる力のような能力を追い求め、自ら「優秀な機械」になろうとする人間は「メリトクラシーの最終兵器」である人工知能にとってかわられてしまうなら、恐れるよりも、人間を機械として働くことから解放してくれる「メリトクラシーの解放者」と捉えればいいと思うのです。
同時に、これまでよしとしてきた「生きる力を身につけさせるため」の教育の目的を、アンラーンすべきです。人工知能のおかげで、もう「生きる力」などと声高に言う必要がなくなったとポジティブにとらえ、教育に「意味のイノベーション」をもたらせばいいのです。
生きる力が百歩譲って必要でも、そんな社会に適応できるようにするのが教育ではなく、社会を変えることができるようにすることが教育の使命だと思います。
「社会の一員として必要な資質を身につける場」という学校の古い意味を、「自分が変わり続けるために行く場」という新しい意味に変える。「社会が自分を変えるための場」であった学校を「自分が社会を変えるための場」へと意味を逆転させるイノベーションが必要なのです。