小林氏はピック氏について、「厨房での一つひとつの動きからも、ここまでの道のりには大変な苦労があったのだろうと感じます。ただ、私たちはこの厨房で男女の性差について考えたこともなかった。それは、シェフがそういう環境を作ってくれたからだと思います」と語る。
ピック氏からは、「男性に負けずに」というような、肩肘を張った気負いは感じられない。柔らかで強い意志で、粘り強く環境を変えてきたからだということが、営業中の厨房から見てとれた。
表の客席で優雅にゲストに挨拶する姿から一転、厨房に入ると、自ら各部門のラインに入って、味を見ながら、誰よりも素早く手を動かし、静かな声で指示を出す。仕事量の多い皿が多く、15人の料理人がハイスピードでそれぞれの仕事を行う。どの動きにも無駄がなく、そのタイミングがピッタリと合っていて、まるで精密機械の内側を見ているようだ。
膨大な試作と味見の繰り返しで
誰よりもハードワークすることにより、自分なりの静かなリーダーシップを実現したピック氏は、「祖父がつくり、父が受け継いだ建物」で、“新しいフランス料理”の創出に取り組んでいる。「この建物は、昔家族で住んでいた家でもあって、庭は私が子どもの時から遊んできた大好きな場所。父は階上の家にいてもよく呼び出されていたから、気が休まらなかったのでしょう。50代になってから近所に引っ越しました。父との急な別れはとてもショッキングな出来事でしたが、この建物のいたるところで父の存在を感じています」
建物とともに、祖父と父が大切にしてきたのがソースだ。それを引き継いだピック氏は、クラッシックを踏襲しつつも、軽やかで現代的、フレッシュ感あふれるソースを作り出している。
三つ星の「メゾン・ピック」の敷地内にあり、祖父の名を冠した「ビストロ・アンドレ」では、やや軽くはあるものの、しっかりとクリームやバターを使ったソースを出すが、メゾン・ピックでは、クリームやバターを使わないソースも多く、時にはオマール海老に合わせて、日本のカツオ昆布出汁に乾燥いちごを浸したものを使うこともあるという。