最初の30分ほどは、聴衆を前にしての公開対談や音楽院での講義など、世界的に活躍する指揮者リディア・ターの音楽に対する考え方が開陳される場面が続く。
やや退屈に感じられるかもしれないが、これが二度目に観ると、ショッキングなラストシーンと共鳴しながら、重く心に響いてくるのだ。
導入部としてあまりキャッチーとは言えないが、この30分ほどのシーンのために、作品には少し長い上映時間が必要だったのかもしれない。
心の闇を映し出すシリアスなドラマ
タイトルの「TAR/ター」とは、もちろん主人公の名前に由来するのものだが、彼女はクラッシックの世界では無双状態にあると言ってもよい。アメリカの5大オーストラで指揮者を務めたあと、女性として初めて名門ベルリン・フィルの首席指揮者に就任。現在はマーラーの交響曲第5番のライブ録音に取り掛かっている。
また作曲家としての名声も確立しており、アカデミー賞、グラミー賞、エミー賞、トニー賞のすべてで受賞を果たし、近く出版される自伝のためにヨーロッパとアメリカをプライベートジェットで往来している。もちろん実在の人物ではなく、物語のなかでの主人公だ。
冒頭の30分ほどで、彼女の音楽に対する考え方と栄華、言わば「光」の部分が紹介されたあと、いよいよ物語は1人の女性指揮者が直面する「陰」の部分へと移っていく。
作品は「サイコスリラー」とも評されてはいるが、それよりも深い、頂点を究めた人間のなかに存在する心の闇を映し出すシリアスなドラマともなっている。
指揮棒をふるう場面は圧巻
ベルリン・フィルを率いる女性指揮者リディア・ター(ケイト・ブランシェット)は、いまやキャリアの頂点にいた。とはいえ、オーケストラの宿願だったマーラーの交響曲第5番のライブ録音を控え、リハーサルはいまひとつ順調に運んではいなかった。作曲活動もスランプに陥っており、原因不明の幻聴にも悩まされていた。私生活では、彼女はオーケストラのヴァイオリン奏者でコンサートマスターを務める女性シャロン (ニーナ・ボス)と“パートナー”の関係にあり、同居しながら2人で養女のペトラを育てている。