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2023.05.19 18:00

森鷗外は最期に「馬鹿らしい」と叫んだ。精神科医が寄せる追慕記

鷗外の墓。隣に妻・志げの墓が並ぶ。三鷹禅林寺にて筆者撮影

森鷗外が没してから1世紀。偉大な文豪にして軍医の「二生」を生きたひとへの、元新聞記者の精神科医による探究シリーズ最終回は、鷗外の遺書「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と最期の言葉「馬鹿らしい」を軸に、「遺書・遺言」への筆者の思いをしたためてみたい。

前回は、日清、日露戦争の兵糧として白米食に固執した結果、脚気(かっけ)蔓延を防げなかった軍医鷗外の姿を追った。
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鷗外の遺書。出典: 別冊太陽 森鷗外 近代文学界の傑人

鷗外の遺書。出典: 別冊太陽 森鷗外 近代文学界の傑人


鷗外は日露戦争(1904-05年)に第二軍軍医部長として従軍した際、公証人役場で「遺言」を残している。骨子は戦地で命果てたときの、森家の財産管理に関するものだった。そこには、妻志げに対し財産相続に全く関与させないことが明言されている。

当時、妻の社会的立場は今と格段に違っていた。とはいえ、鷗外は戦場から繰り返し妻に手紙を送っている。志げのことを「やんちゃ殿」と呼ぶなど、ほほえましいエピソードを当シリーズ第2回で紹介した。

こうした二面性が鷗外を理解するうえで立ちはだかる壁に思えた。それを象徴する出来事、大逆事件を論考の中心に据えたのが第3回だった。(記事:軍医VS文豪――森鷗外の二面性 大逆事件下「心の内」を精神科医が読む

幕末、本州西端に近い城下町の津和野藩(島根県)で生まれた鷗外にとって、森家代々である藩医を引き継ぐのはむしろ自然な成り行きだったはず。しかし、天賦の才は西洋医学のみならず、黎明期にあった日本近代文学の道も開拓していった。

立身出世の登山口「ドイツ留学」と乃木希典

誰よりも若く東大医学部を出て、ドイツ留学を果たし、そこで文明開化の源となる「西洋」と出会う。一度は添い遂げようと思い定めたはずの女性エリーゼとの苦い顚末を小説『舞姫』に託した深層心理を第1回で解析した。

親戚の学者西周の縁もあり、陸軍軍医となった鷗外にとって、官僚組織に敷かれた昇進ルートを上るのは他の軍医たちと変わらぬ道だった。その登山口にあたるドイツ留学で出会ったのが乃木希典。1887(明治20)年、25歳の鷗外は研修地ベルリンで、同じく留学中の乃木少将(当時)と交流した。鷗外の日記に13歳年長の乃木の印象をこう書き残している。

「長身巨頭沈黙厳格の人なり」

長身の体格は真逆だが、以後の表現は鷗外自身を評したようにも読める。山崎國紀氏『評伝森鷗外』(大修館書店)には乃木が津和野の隣、長州藩(山口県)出身で、「この留学時代からお互いに好感をもち合っていたとみるのが自然」とある。

乃木は帰国してのち、自分の息子に与えた外国語本の内容が好ましいかを鷗外に尋ねている。その息子ともう一人の息子は日露戦争に応召し、二人とも戦のさなかに斃(たお)れた。鷗外は戦火を詩歌で表現した『うた日記』中の詩「乃木将軍」で、乃木の息子たち(勝典・保典兄弟)を哀悼している。

鷗外と乃木が出会って25年後の1912(明治45)年7月、明治天皇が崩御した。
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文=小出将則

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