人間は忘れる。だから繰り返す。
稲盛は常々、「世の中に人のために尽くすことこそ人間として最高の行為」だと話していた。フィロソフィーはこれをベースにつくり上げられていた。会社の目的と記されたところには「全社員の物心両面の幸福の追求」「売上は最大に、経費は最小に」「人間として、何が正しいかを判断せよ」……。プライドばかり高い気ままな会社といわれた日航の“朝”が変わった。「JALフィロソフィー」を唱和することから日航の朝が始まった。この朝の唱和は稲盛が日航に乗り込み、およそ2年8カ月で再上場をさせて日航を去ったいまも続けられている。全社員がいまも「JALフィロソフィー」を胸ポケットに入れている。
稲盛は再建の最中、よく日航の社員を食事に誘った。「ちょっと食べ行かんか」。
稲盛が連れ出したのはチェーンの牛丼店だった。面食らう日航の社員たちを尻目に、牛丼と牛肉を煮た「牛皿」を必ず注文した。「あんた、それだけだったら足りんやろ」と言っては「牛皿」の牛肉を自ら取り分けもした。
牛丼をつつきながら稲盛は自らの経験、失敗談などをとつとつと話した。
「経費は最小に、や」
牛丼店を出る時、稲盛は決まってこう言っては笑った。常に自らフィロソフィーに基づいて行動し、実践する姿を見せた。
27歳で「京都セラミック」を起業した稲盛の人生は、挑戦と改革の連続だった。
1984年、「第二電電企画」(KDDIの前身)をつくり上げる。電気通信の自由化の前、誰もができっこないと言っていた。
国有企業の民営化と大胆な規制改革を打ち出していた時の首相、中曽根康弘は、通信の独占を打ち破った第二電電の誕生をことの外に喜んだ。
「セラミック屋に何がわかるかと言われたが、私には哲学があった」
ポツリとこう漏らした稲盛に中曽根は深々と頭を下げたという。
日本を代表する大企業2社の創業にかかわり、JALの復興にも手腕を振るった稲盛のもとには、その経営哲学を学びたいと多くの経営者が訪れた。