その彼との交流の中でも、最も心に残っているのは、2018年4月、ニューヨークで夕食を共にしながら、店が閉まるまでの4時間、肝胆相照らす思いで、語り合ったことである。
テーマも多岐にわたり、資本主義の変革論、マルクスの予見と限界、ネット革命と民主主義の進化、ヘーゲルの弁証法と歴史観、から始まり、人工知能の出現と人間の条件、21世紀の宗教と日本文化、東洋文明と西洋文明の融合、ガイア仮説と地球環境問題、複雑系の思想と生命論パラダイム、さらには、詩と言霊と音楽、星野道夫の人生と運命、アカシック・フィールドと未来の記憶、といった話題であったが、彼の眼差しは、「音楽家」の世界を遥かに超え、「人類の未来」を見つめた「変革者」のものであった。
そのことは、彼の遺した数々の社会的活動と社会変革のメッセージに象徴されている。
その坂本龍一が旅立ったいま、世界は、かつて、若くして、ジョン・レノンが去り、スティーブ・ジョブズが去ったときと同様、深い喪失感に包まれている。それは、「この天才が、あと10年生きたならば、さらに、どれほど優れた作品を遺しただろうか」という哀惜の念でもある。
もとより、そうした喪失感と哀惜の念は、筆者の心の中にもあるが、しかし、その心のさらに深層において、筆者は、坂本龍一の魂と才能は、決して、消え去ってはいないと思っている。その魂と才能は、ただ「大いなる存在」のもとに帰っただけだと感じている。
そして、これは、決して「宗教的なレトリック」を述べているわけではない。その「科学的なリアリティ」としての意味は、筆者の著書『死は存在しない - 最先端量子科学が示す新たな仮説』を読まれた読者ならば、すぐに理解されるだろう。
実際、坂本龍一は、その音楽活動の初期から、「自分は、ドビュッシーの生まれ変わりだ」と公言して憚らず、また、映画『戦場のメリークリスマス』の主題曲の作曲においても、「あるとき、ピアノの前で、ふと意識を失い、気がついたら、そこに譜面が書かれていた」と語っているように、彼の溢れるばかりの独創的な才能は、「大いなる存在」に繋がることによって、与えられたものであった。
そして、これは、決して、坂本龍一だけの特殊な能力ではなく、昔から、分野を問わず、天才と呼ばれる人物が、共通に持っていた能力である。
例えば、版画家、棟方志功は、「我が業は、我が為すにあらず」と語り、優れた文筆家の多くは、その作品を、「勝手に筆が走って生まれた」と語るように、多くの天才は、その作品を、「大いなる存在」に導かれて創ったものであると述べている。