勉強が嫌い、という人は多い。学びは本来楽しいことのはずなのに、なぜ、そうなってしまうのだろう?とはいえ、誰もが「記憶に残る授業」の1つや2つはあるのではないだろうか。ちょっと思い出してみてほしい。その授業の共通点は?思い浮かんだその授業には、楽しさ、驚き、感動、共感、達成感など何かしら学ぶ姿勢にプラスにはたらく気持ちや体の変容があったはずだ。
学習者の意欲を高めることは、学びの場でもっと大切にされてよいのではないか。学びたくなった人は、教室や教科書を飛び越えて、身近なことから世界のことまで、あらゆることから学んでいく。
学びの前に、学びたい状態にする。いまの教育のプロセスで忘れられがちなこのフェーズを「プレ・エデュケーション」と名付けてみた。学びの前のアタマとココロとカラダの準備として、「なぜ学ぶのか」を全身で探究する時間を大切にしようという考えだ。
「習う」より「聴く」から始めよ
プレ・エデュケーションのヒントになったのは、「楽器を習いたかったら、音楽教室で学ぶのではなく、まずウォークマンを渡せ」という言葉だ。誰の言葉か忘れてしまったが、好きな音楽に出合い、好きな音色の楽器に出合い、好きなアーティストにほれこんで、いよいよ聴くだけでなく演奏してみたい!という気持ちがフツフツと湧き上がる。そのココロをもってから音楽教室に通えばよい、というわけだ。僕は高校生のとき、物理の勉強をしなければならなくなった。教科書や参考書を開くと運動方程式が出てくる。分厚い参考書を前に、僕は挫折感を味わっていた。「これは無理かも……」と。このとき僕は「物理を学ぶ動機をつくろう」と思い、湯川秀樹さんの自伝を読んでみた。その自伝の面白かったこと。ノーベル賞を受賞した物理学者だからバリバリに理屈っぽい話かと思ったら、とんでもない名文家で、文学、哲学、歴史など縦横無尽に教養がほとばしる読み応えのあるエッセイだったのだ。量子力学の世界を開いた偉人のひとりが、こんなにも豊かな世界観をもって生きていたのかと感動した。
この本に「理論物理学は、簡単にいえば、私たちが生きているこの世界の、根本に潜んでいるものを探そうとする学問である」と書かれていた。物理学を学ぶことは世界の根本を知るための入り口であり、高校生の僕は、いまその門の前に立っていると気づかされたのだ。いまや物理の公式はほとんど忘れてしまったけれど、当時のこの読書が受験勉強の後押しをしてくれたことは間違いない。なぜ学ぶのか。WHATでもHOWでもなく、WHYが腑に落ちたとき、学びへと向かう強度が生まれるのかもしれない。
いま教育と呼ばれているプロセスは、目的達成のためのトレーニングに近いと感じる。エデュケーションの語源、エデュース(Educe)は「知識を与える」ではなく「潜在能力を引き出す」という意味。だとすれば、プレ・エデュケーションのほうが、本来のエデュケーションなのではないだろうか。