グレアムは、現実の画像と合成画像の境目をぼかすことには一定の癒やし効果があると主張した。コンピューターで生成された若い頃の自分や亡くなった大切な人と対話することで、悲しみと折り合いをつけることが可能になるというのだ。「頭は物事を統合し、より現実的にする。Zoom(ズーム)での通話は現実の代わりにはならないが、もしもZoomを(没入感のある超現実的なAI生成画像によって)現実に近づけることができれば、頭の中で現実にできる。その対象についての記憶が、それを現実のものだと思わせる」
私が話を聞いたTEDの聴衆のほとんどは、想定される利点について、明らかな欠点と同じくらい不安になると感じていた。グレアムは、人々の反応は世代によって大きく異なり、デジタルメディアやデジタル文化に普段から浸っている若年層はリアルな体験とデジタルな体験の区別を優先していないと述べている。「若者の多くは、たくさんの時間をビデオゲームに費やしている。そういった場所は、彼らにとって物理的な世界よりもリアルだ」
社会問題に極めて関心の高いTEDの聴衆を前にしたグレアムのプレゼンで、もう1つ物議を醸したのは、ディープフェイクが情報エコシステムの一部になることは避けられないとする姿勢だ。壇上でグレアムは「それはもう起きているし、急速に進行している」と述べた。まるで、法的・倫理的・哲学的な問題とは関係なく、私たちはただイノベーションのためのイノベーションを受け入れる必要があると示唆しているように思われた。
後日、この解釈について議論した時、グレアムは困惑している様子だった。「私の標準は、止めることができないなら絶対に規制しなければならない、という考え方だ。『どうせ起こることなら何もしないでおこう』という発想は、米国ならではの反応だと思う」とオーストラリア人のグレアムは語った。