学校内にある学生寮の横に、ミッドウェー海戦(1942年6月)の記念碑群が置かれている。当時の海戦の流れを詳しく図解した碑もあれば、「最も決定的な海戦のひとつ」という文句で始まる、海戦を説明した碑もある。日米両軍が中部太平洋の制海権をかけての戦いで、日本は主力空母4隻とベテランのパイロット多数を失い、太平洋戦争の転換点になった。米軍は勝利したものの、当初は敗色濃厚とみられていたことが、この戦いを長く記憶し、教訓にする契機になった。このミッドウェー海戦を強く主張したのが、「米空母機動部隊の撃滅」を訴えていた山本五十六だった。
当日は生憎、閉館していたが、校内の博物館には山本五十六の写真と人物を紹介したコーナーもある。山本を「真珠湾攻撃を企画した人物が、戦争に最も反対した人々の一人だったのは皮肉である」とも紹介している。山本五十六がかつて、近衛文麿に「(対米戦争を)やれと言われれば、最初の半年や1年は暴れてご覧にいれる。しかし、2年、3年となれば全く確信は持てない」と述べた故事にも触れている。
山本五十六が米海軍に携わる人々に強烈な印象を残したのは、その斬新な発想にある。自衛隊の元幹部は「真珠湾攻撃当時、米国での空母の位置づけは艦隊の護衛といった程度だった。多数の空母を集め、真珠湾攻撃を実現した山本の戦術をみて、米国人は『そんなやり方もあるのか』と度肝を抜かれた」と語る。米国はその後、空母を中心にした航空戦術を重視し、戦後は空母1隻にイージス艦5隻程度、原子力潜水艦1~2隻で構成する空母打撃群を中心とした作戦構想を確立した。