ブロードキャスターのピーター・バラカンさんは、かつてYMOのマネジメント事務所で働き、通訳や国際的な業務を担っていた。1982年には、大島渚監督の名画「戦場のメリークリスマス」に出演した坂本さんに同行し、自らもエキストラ出演するなど、ともに時間を過ごした。
出会いから40年以上──年齢も同じで、ともにテレビやラジオ出演する機会もあった。坂本さんの愛称である「教授」と、ピーターと呼び合う仲。周りから見れば、長年の友人だと思う人もいるだろう。だが、本人は「友達だとは僕の口からは言えませんよ」と語る。
二人は一体どんな関係性で、ピーターさんは坂本さんから何を託されたと感じているのか。過去の思い出を回想し、坂本さんが亡くなっていまの率直な思いを明かした。
坂本龍一との出会い
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— Peter Barakan (@pbarakan) April 2, 2023
2人の出会いは1980年に遡る。ピーターさんは1974年に来日し、音楽出版社で著作権関係の仕事をしていた頃だった。友人の後藤美孝さんから「友だちがアルバムを出すから英語の歌詞をちょっと手伝ってもらえないか」と電話があり、二つ返事で「いいですよ」と言った。その友人というのが、YMOとして人気を博していた坂本龍一さんだった。この頃、ピーターさんはYMOの音楽は耳にしていたが、メンバーの坂本さんのことは知らなかった。
誘われるまま坂本さん2枚目のソロアルバム「B-2 UNIT」のレコーディングのため、ロンドンに向かう飛行機内で、2人は初めて軽く挨拶を交わす。ピーターさんはロンドンにいる間に歌詞をもらうことになっていたが、結局現地ではなく日本に帰国してからテレックスでローマ字に直した日本語の歌詞が送られてきた。
ただ、ピーターさんは音源を聞かずに英訳をしたため、レコードが出てからその音楽性に驚いた。「実験色のあるアルバムで、携わった曲『thatness and thereness』は一番聞きやすい曲でしたね。メロディにも意外性があり、面白いと思いました」
レコード発表からしばらくすると、坂本さんのマネージャーから「今回のギャラの話をしたい」と電話があり、会ったらギャランティの話はものの1分で済み、マネージャーから突然こんなことを言われた。
「ひとつ相談がある。うちの事務所で働く気はあるか」と。
実は、ピーターさんはテクノ・ポップを標榜していた当初のYMOが「好みではなかった」と語る。「もしあの仕事をする前だったら断っていたと思います。でも当時出たYMOのアルバム『増殖』を聴いて少し変わったなという好印象もあり、オファーを受けて事務所で働くことになりました」