しかし、社長の柳井正さんが、父親が山口県宇部市で創業した店舗を引き継いだ1973年には、店員が7人だけの小さなメンズショップでした。しかも、いきなりとんでもないことが起こります。
「24歳で家業を継いだとき、私との意見の衝突で、7人いた店員が1人を残して全員辞めてしまったんです」
経営者としてはいきなりの大失敗。しかし、結果的に柳井さんは、そこから大きな学びを得ることになります。
「商売に関して自分で全部経験することができた。販売、人の管理、仕入れ、返品、経理……。この体験が大きかった」
柳井さんは、こうインタビューで語っていました。
心がけていたのは会社を潰さないこと
1984年、柳井さんは、広島市中区に「ユニーク・クロージング・ウエアハウス」(略称「ユニクロ」)1号店を開店します。翌年には、山口県下関市にロードサイド1号店を開店。これが、その後のユニクロ店舗の原形になったと言われています。「ただ、20代、30代は、目の前の経営をすることでいっぱいいっぱいでしたから、将来のビジョンなんてとても描けなかった。心がけていたのは、とにかく会社をつぶさないようにすることだけでした」
そして「失敗もたくさんした」と自ら語っていました。
「でも、致命的にならない限り失敗はしてもいいと思っていました。やってみないとわからない。行動してみる前に考えても無駄です。行動して、考えて修正すればいい。それが人生だし、それが商売だと思っているんです」
さまざまなチャレンジをし、試行錯誤した末に、柳井さんはユニクロのビジネスモデルを確立していきます。やがて日本のバブル経済が崩壊。消費大不況という時代を迎えるなかで、ユニクロは快進撃を続け、売上高を急伸させていくのです。
個人の能力が企業を左右する時代
実は、私が柳井さんにインタビューをしたのは、2001年でした。当時はまだ売上高も約3000億円、店舗は640ほどの時代。もう20年も前になるわけですが、あらためて当時のインタビューを読み返してみて驚いたのは、柳井さんがすでにこんなことを語っていたことです。「当たり前のことを当たり前にしている。それだけなんですよ。会社の存在意義やビジョンをしっかり共有し、それを社員全員が意識して仕事に取り組んでいる。商売の原点をきちんと守っているだけです」