作家らしい独自の物語設計
物語の流れは原作の「生きる」とあまり変わらないのだが、脚本を執筆したイシグロは、そこに独自の設定として、主人公ウィリアムズのもとで働き始めた若い職員ピーター(アレックス・シャープ)の視点を導入している。ピーターは冒頭の列車のシーンから登場しており、彼の目から見たウィリアム像が描かれる。それが原作とは異なるラストにまで連なっていく。このあたり、作家であるカズオ・イシグロらしい物語に対する独自の設計かもしれない。
(c)Number 9 Films Living Limited
また、原作の「生きる」は全体が重苦しいトーンで描かれているのに対して、「生きる LIVING」からは未来への希望を感じさせるポジティブな雰囲気が漂ってくるのも、このピーターの視点の存在が大きいかもしれない。
「私の脚本は、原作にとても忠実です。しかし、違う価値観を持った若い世代が育っていることを、もっと強く感じたかったのです。その楽観的な感覚が欲しかった。そしてラブ・ストーリーも。必要かどうかはわからないけれど、作品は甘美なものになると思いました」
その言葉通り、作中ではピーターとマーガレットとの間に、ほのかなラブロマンスも設定されている。原作とは異なり、この作品が人生に対する明るい肯定感を放っているのは、このようなエピーソードにあるのかもしれない。
ビル・ナイは欠かせない存在
「生きる LIVING」は、アカデミー賞では脚色賞の他に、ウイリアムズ役のビル・ナイが主演男優賞にノミネートされていた。そして、イシグロの脚本も彼が主役を演じることを前提として書かれていたという。「ビル・ナイはこの作品に欠かせない存在でした。彼はイギリス人らしいユーモアのセンス、皮肉、ストイックさ、そして内面にメランコリーのようなものを持っています。そして私には、彼が駅のホームにいる男たちのように見えたのです」
このようにイシグロは、前出のようにかつて小学生の頃に見た電車で通う男たちの姿に、ビル・ナイを重ね合わせていた。原作の「生きる」では、癌告知をされる主人公を名優の志村喬が迫真の表情で演じていたが、「生きる LIVING」では、ビル・ナイは終始淡々とした静謐な演技を貫いている。
『生きる LIVING』は3月31日(金)から全国ロードショー (c)Number 9 Films Living Limited
そのあたりは黒澤明監督というよりは、同じくカズオ・イシグロが愛してやまない小津安二郎監督の作品に近いかもしれない。その意味でも、原作と比べながら「生きる LIVING」を観れば、さらに愉しみが増すにちがいない。
先のアカデミー賞では、残念ながら脚色賞にも主演男優賞にも輝くことはなかったが、この「生きる LIVING」が、かつての日本映画の名作「生きる」に新たな光を当てたことは、喜ぶべきことかもしれない。ぜひ、両作品を併せて観賞することをお勧めしたい。
連載 : シネマ未来鏡
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