固定観念を持つと、特定の集団に属する人々がすべて同じか似ていると考えるようになる。たとえば、「ティーンエイジャーは無責任だ」とか、ある民族は「怠け者だ」とか、「年寄りには関係ない話だ」といった具合だ。こうした概念は、私たちが固定観念で捉えた相手に対して、どのような行動をとるかにつながっている。このような考え方を受けとる側になりたいと思う人はいない筈だし、まったく不公平であることは多いのだが、加齢に対する固定観念は根強く残っている。
家族の中で高齢になった大切な人を「年寄り」という理由だけで、物事ができない、理解できない、生産性がない、と思ってしまうことがある。しかし、私たちはいつ「老いる」のだろうか?引退したとき?白髪になったとき?それとも、自分で自分を年寄りだと思ったときだろうか?
米国政府は、65歳以上の人を高齢者と定義している。そして85歳以上の人を「最も高齢のステージに達した者」と定義している。高齢者のための特別な保護法が設けられているのは、加齢に伴い、高齢者がより脆弱になることがあるのは事実だからだ。しかし、その前提は常に当てはまるのだろうか?知り合いや会ったことのある高齢者の中で、シャープで活動的で、虚弱体質という固定観念に当てはまらない人を挙げられる人は多いだろう。
固定観念の弊害
そうした固定観念が家族に影響を与え、AgingParents.comで見られるような対立を引き起こしているのだ。アダルトチルドレンの中には、高齢の親が、自分がどこに住みたいのか、誰にお金や医療を任せたいのかに関する、合理的な意思決定をする能力がないと誤解している人がいる。高齢の大切な人の物忘れや認知症を正確に把握するためには、第三者による判断も必要だ。しかし、たとえ認知障害があっても、多くの高齢者は、何を着るか、何を食べるか、さらには必要なケアをどこで受けたいかといった基本的な選択をすることができる。高齢者が認知症などの認知機能の低下している場合は、非常にやっかいなことになる。高齢者の機能は衰えているものの、おそらく人生のあらゆる場面や、あらゆる可能性に関する決断をできなくなっているわけではない。