いわゆる伝統技術に基づく職人がつくる世界だけでなく、ホテルやグルメ領域、いわゆるサービス領域がラグジュアリーのもう一つの牽引役です。もちろん、最近のオンラインビジネスやサービス論議がモノを軽視してきたこともあり、それに反省する動きはあります。しかし、モノとコトをどう統合するか? が前提であり、製造業がコアという表現は誤解を生みやすいです。
次に、ぼくも強調したいと思う山田さんの意見を紹介します。
まず、「日本人的なおだやかでほどほどのものは、グローバルマーケットではエッジが立たないのです。ラグジュアリーって技術や伝統に加え、人間の欲望に訴えることと裏表になっています」の部分。この「エッジが立つ」というのが『新・ラグジュアリー』で述べた、ラグジュアリーは新しい文化をつくる実験の場という考えに合うと思います。
かつ、このエッジが、あまりに頭で考えられたものであってもいけません。欲望は、理性から外れたものとして往々にして否定的に捉えられますが、美しさへの強い希求も欲望の一つです。
イタリアにおけるサステナビリティが気候変動対策を第一の動機とするのではなく、「美味しいものを食べ続けたい」「美しい風景を見続けたい」が根底にあることにみるように、審美的な点を低くみないことが肝心です。こうした点があるからこそ、新しい文化創造を駆動することができます。論理はインフラ構築には貢献しますが、文化は多くセンスメイキングの領域の産物です。
2つ目は、「プレミアムの部分を『これはフランスの文化であり伝統だから』として価格をつける、そこがまさに国ぐるみなのです」という部分です。フランスだけでなくイタリアもそうですが、インバウンド人気とその国の商品の値段が並行するような仕掛けになっています。
文化とは何もハイカルチャーの世界での評価ということではなく、ライススタイルの評価が、そこで作られるものの価格に反映される、ということです。
他方、日本の文化はインバウンドを盛り上げる魅力にはなりますが、ライフスタイルそのものは外国人の眼にさほど魅力に映っておらず、そのために価格に反映しづらくなっているとぼくは見ています。言ってみれば生産性が低く余裕の少ないライフスタイルと価格の間をつなげる理由がないのです。ここは今後、検討すべき点です。