なぜ日本でラグジュアリーが育たないのか、という問いの限界

高級ブランド店や宝飾店が立ち並ぶパリのヴァンドーム広場(Getty Images)

山田:まずは「作る部分」でいいものを生み出していくのが大前提です。製造業がコアになります。「この指とまれ」の音頭をだれがとるのか。生き死にを懸けて商売している人が号令をかけないと説得力がないでしょう。ラグジュアリーという旗を掲げて意見交換の場を重ねていけば、コミュニティが育っていくのではないでしょうか。

中野:安西洋之さんとの共著『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』では、多くの人が想定するようなヨーロッパ型ラグジュアリービジネスを「旧型」と位置付けました。格差を前提とし、排他性を何百万人にも売るという矛盾に満ちた高付加価値ビジネスは、上下格差がリスクとなるこれからの時代には古く見えてくるのではないでしょうか。

日本はそれとは違うアプローチで、フェアでローカリティや職人の幸福まで視野に入れた独自のラグジュアリーのあり方を創造すべきと考えますが、山田さんはそのような考え方をどのように受け止められますか?

山田:旧型ラグジュアリーって言葉、いいですね。もやもやと思っていたことを一言で表してもらった気分です(笑)。LVMHなどの経営手法は、ザ・資本主義を体現していますからね。

そもそも「旧型」は日本の社会になじまないのですね。日本は階級がないフラットな社会構造でしょう? アメリカは、成功したらいくらでも富を手に入れられる。日本では努力した結果であっても認められない。都心の富裕層がどんどん海外に出ていくのを見ると、行き過ぎた平等社会は(旧型の)ラグジュアリービジネスを生まないなあと思います。

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中野:そんな日本は、ヨーロッパのラグジュアリービジネスにとっての最大の市場だったこともあります。

山田:日本人が4〜5割を買い占めていたこともありました。日本の消費者はラグジュアリーをよくわかっている、といわれましたが、必ずしも優れた感性をもっていたわけではなく、「みんながもっているからほしい」という付和雷同な面もあったように思います。

私が大学生だったころ、なぜ高いお金を払ってみんなと同じものを買うのか不思議でした。日本でラグジュアリーを扱うにあたっては、私たちは本当は何がほしいのか? どんな価値を大切にしたいのか? 何がユニークなのか? ということを徹底的に考えていかなくてはなりません。教育も働き方も同じです。

中野:価格のつけ方にも、一部の階級のみが受容できる高付加価値をつけにくいという、フラットな社会特有の特徴があります。もっとも、日本はそこで無理して旧型的な付加価値をつける必要もなく、関わる人全員に適正な配分がなされる価格設定の方法を考えていけるのではないでしょうか。

山田:価格の高さと、ラグジュアリーかどうかの尺度は、たしかに別物です。でも、手ごろな金額だったら普通に手が届く凡庸なものとなりえる。高額であることがラグジュアリーの条件なのかということも考えなくてはなりませんね。

ただ、世界の消費者の気を引こうと思ったら、やはりエッジがないといけない。日本人的なおだやかでほどほどのものは、グローバルマーケットではエッジが立たないのです。ラグジュアリーって技術や伝統に加え、人間の欲望に訴えることと裏表になっています。負の部分にも訴えるものではないとラグジュアリーにはならないところがあります。
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文=中野香織(前半)、安西洋之(後半)

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